高校生だった私は、その日も其処へ居た。

先生がいらっしゃるまで、書斎の中の大判の本の背表紙を、

ただ何気なく眺めたり、低い机に置かれた灰皿の四角い焼物を、

みつめたりしていた、ように思う。


まもなく先生は、その低い照度の、なんとも落ち着いた書斎に現れて、

ゆっくりとお茶を淹れてくださるのだった。

ゆっくりと丁寧な作法で、おそらくは何十年もそうしてきたであろう

手順と手つきで、私のような高校生に、おいしいお茶を。


青くさい質問やら、未熟な態度に、本来なら辟易してしまうはずなのに、

先生は怒るどころか、大事そうに全く真正面から私の相手をしてくださった。

なぜ、あんなに大切にして頂けたのか、今でももったいなく有難く思う。

先生は、その人の歩んできた道程さえ写すような

ポートレートを撮ることで知られている。


片山先生、お元気でいらっしゃいますか?

私は、今でも、あの照度の低い、とても静かな書斎のことを、

想い出します。

上品で高価な器に頂いた一服のお茶。話を聞いていらっしゃる時の、

とても優しいまなざし。時折見せる眼鏡の奥のとても厳しい眼光...

摂三先生の生きる姿勢を、あれから何十年も経った今頃、想い出すことが

あります。


私も、私の間合いで、人と関わっていこうと思います。