一斉に、というのが苦手だ。

たぶん、一斉に、ということに面白味を感じないからだろう。

この国は、「一斉に」が好きだ、と感じることがある。

「一斉に」には、マジョリティーの論理で物事が決まっていく

無責任さと危うさがある。


その昔、良い中学校を目指した、良い高校に入るために、

良い大学に入るために、良い就職ができるように、

良い生活ができるように、良い..


この国の子供たちが「一斉に」という感じで、

同じところを目指して流れ込んでいく光景を見ていた。

「あの頃のみんな、良い生活はできてるかい?」


「一斉に」ということの不自然は、自然に触れれば自然に分かる。

自然界では、さまざまな生き物が、さまざまなバリエーションやデザインで、

みんな上手に生きている。

どれもが至芸のライフスタイルで、どれもが美しい。


「一斉に」が楽なのは、

「一斉に」を作り出している側にとってだけだ、ろうな。


たとえば、

「一斉に」明るく元気である必要なんか、ないぜ。

天気と一緒で気分も「気」、

やる気が起きないときも、ちょっと元気がでないときも、あるさ。


自分の内なるところから聴こえる声、

- しかし、その声は、きっと高いところから降りてきたものだろう -

その声に耳をすまして、気持ちの波をつかまえよう。


まずは、心の波が描く不思議な模様を眺めて、

その変化に富んだ微妙な美しさを楽しむんだ。

そこから、「一斉に」ではない、自分だけのラインがみつかる。


君の人生だ、

果てしないヴァリエイションから自由に選び取って行け!