『長く、世の中は男女平等なのだと思っていました。
その傍ら「沈黙は金」と自分に言い聞かせて生きてきました。
自分の意見を言うと怒鳴られたり人格否定をされたからです。
何故だろう?とずっと自分を責めていました。
最近になってようやく、それは自分が女性だからなのだと気付きました。
意見を言う女性は受け入れられないのだと。』
これは、きのう吉祥寺シアターで観てきた芝居『令和X年のマクベス』のパンフレットに書かれている、作・演出の吉村元希(げんき)さんの文章の一部抜粋である。
上演前、まだ明るい劇場内の座席で読んだ。
「ああ、これぞ元希さんだな」
と思った。
元希さんとは昔からの仕事仲間で(私は以前から彼女をこう呼んでいて、あらたまって吉村さんなどと書くとどうも自分自身のすわりが悪いので、以下元希さんで通す)、彼女がテレビアニメの脚本を書いていた頃『テニスの王子様』や『BLEACH』等でご一緒した。近頃はその活動の場を舞台に移していて、時折彼女ご本人から、彼女の芝居のお誘いをいただく。きのうもそうで、新作舞台『令和X年のマクベス』を観てきた。
これはタイトル通りシェイクスピアの『マクベス』を元希さんが翻案・演出したもので、演者は全員女性の俳優さん、物語と台詞はほぼ原典のものを使っているものの、例えばマクベスは令和の今の若者と同じ服装をしているし、言えば令和の現代の日本でマクベスを上演する時、試みとして一つこういうスタイルもアリなのではないか、という演出になっていた。
だが、最も重要なのは以下の事である。
この芝居はジェンダーフリー、つまり、男のキャラも女のキャラも全て女性が演じていて、しかしそれは宝塚歌劇風ではなく、「性別を取っ払う」、つまり男でも女でもなく、全員が一人の人間として各人の役を演じるという試みで(男役の女性が男っぽい演技をしたりはしないという事)、この発想は私がかねがね思っていた、ジェンダーの壁によって未だに社会に根強く残っている様々な問題を解決するには、ジェンダーフリーが最も有効なのではないかという考えと一致していて、上演中に内心唸りっぱなしだった。
「しまった、元希さんに先を越された……」
という感が強かったからだ。
最初に引用した元希さんの文章は、21世紀になった、しかも平成から令和に変わって既に6年が過ぎた今なお、この社会に根強く残っているジェンダーの壁に、元希さんが長年苦しめられてきた心情の吐露だと思う。ご本人を多少知っているが故に、私は息が詰まるようにして読んだ。
幸いにして私が彼女とご一緒したアニメの現場に限っては、元希さんがずっと感じている「意見を言う女性は受け入れられない」という空気はなかったと思っている。何故なら、そもそも私がそういう風潮(というか社会)にずっと彼女同様抵抗を感じていて、私の仕事の際のスタンスは「男だろうが女だろうが関係なく、全ての脚本家には『一人の脚本を書く人間』として接してきた」という自負があるからなのかもしれない。脚本の現場では、性別に関係なくどれだけクオリティの高い脚本を書いたかが勝負で、そこを最も重要視して仕事して初めていい作品が生まれると信じているからだ。
だが、他の現場、特に元希さんが経験した私の参加作品以外の現場では、「女性の意見は受け入れられない」という事があったのだろう。また、仕事のみならず、例えばプライベートの人間関係や飲み会の席上などでも、そうした経験をされたのかもしれない。
その彼女の「ジェンダーの壁を乗り越えようとする決然とした意志」が、今回の『令和X年のマクベス』にはほとばしるように、または鋭いナイフのエッジのように表出していた。誰もが知っている『マクベス』という題材をある意味舞台装置的に使い、しかし彼女の目指すところは『マクベス』を媒介して、今の社会における女性の立ち位置を「まだまだ前時代的に過ぎるのではないか?」という告発、あるいは彼女の心の叫びのように表出させているのだ。
だからこそあえて演者を全員を女性にし、しかし彼女らに性別に関係なく、シェイクスピアが創造した男役、女役を一人の役者・人間として演じさせた。私にはそれが、実に私のよく知る元希さんの演出らしく見え、また頼もしくもあった。
つまり……、
『男女雇用機会均等法』が1986年に施行されてから既に38年経過しているにも関わらず男女の賃金格差の問題が未だに改善されていない社会、性差別、セクハラ、マタハラ、男性優位の職場が多々存在する社会、そうした社会を作家として生き抜いてきた彼女が、「一体いつになったら自分たちは『女性』としてではなく『人間』として社会から認知されるのか?」という、こうした様々な問題を抱える社会に決然と挑んでいる、そんな芝居だった。それを最も効果的に表現するために、彼女は敢えてシェイクスピア劇の『脚色』ではなく『翻案』とし、『シェイクスピア劇を女性が、しかし女性としてではなく一個の人間として演じる』というスタイルをとった、それが元希さんの必然だったのだろうと思う。
この試みは必ず多くの女性の観客の心に刺さるはずで、しかし逆説的に、この試みが女性の心に刺さっている間は、つまり彼女らが「自分は『一個の人間というよりあくまで女性としてのみ社会から認知されている』という思いを抱きつつこの芝居に共感している間は、社会からジェンダーの壁は根絶されていない証なのだと思う。
元希さんはこれを、彼女の持ち前の「決然として事に当たる」というパワーを最大限に発揮してこの舞台に挑んだ。
そして、今の社会の現実を舞台上の俳優たちを通して存分に表現した。
観ていて「先を越された」悔しさは多少感じたものの、それ以上に「さすが元希さん。吉村元希ここにあり」とも感じた。
元希さんご本人には一度も言った事はないが、一緒に仕事をしていた頃、彼女の書いてくる脚本にはいつもこうした「決然とした感じ」が濃厚にあり、『テニスの王子様』にしても『BLEACH』にしても、性別を越えた一個の人間・作家吉村元希が息づいていた。故に、彼女の脚本はいつも異様にエッジが効いていて(異様と言ってもこれは褒め言葉である)、私は感心しきりだった。そして、彼女と同じく「仕事に性別は関係ない」と思っている私は、彼女との仕事はひじょうにやりやすかった記憶がある。
そうした彼女が、しかし私の知らないところで上記のように苦しみを抱えながら作家生活をしてきた事までは知らなかった。
しかし考えてみれば、これは社会が一向にジェンダーの壁を撤去できずにいる状況を考えれば当然起こり得る事で、いろいろと大変な経験をされたのだと思う。
今回の舞台で、彼女はその想いを一気に解放し、だが解放しっ放しではなく社会への鋭い問いかけとして昇華していた。そこがいかにも元希さんらしい「決然」なのである。何しろ日本に限らず、大統領選挙戦真っ最中の今のアメリカですら、ハリス候補の応援演説に立ったクリントン氏が『今こそ、ホワイトハウスのガラスの天井を打ち破らなければならない』と訴えるくらいだから、日本のみならず世界的にジェンダーの問題は一向に前進していないのである。元希さんが今回の芝居に賭けたその想いの中には、クリントン氏同様の「打ち破ろうとする決然」が見えた気がする。
知り合いだからという理由ではなく、純粋に『令和X年のマクベス』という舞台を観た一観客として、手放しで拍手を送りたい。
『令和X年のマクベス』は残念ながらきのう一日きりの公演だったので、ご存じなかった方はこれから観られる機会は配信しかなさそうなのだが(きのうの舞台は録画されていたので、多分いずれあると思います)、しかし、元希さんは自ら『戯曲組』という演劇母体を主催されている。今回の作品もその『戯曲組』の第7回公演として上演された。
今後、様々に形を変えつつも、彼女の「決然」は上演され続けていくに違いない。彼女と同じ想いを抱えている方は、それこそ男女を問わず、次の公演にはぜひ足を運んでほしい。
そして、作家・吉村元希の想いを体感してほしい。
いつかは、この社会からジェンダーの壁が消え去る事を信じて。
以下は、吉村元希主催・戯曲組の公式サイトです。