日本映画の壁を突破し続ける、「映画『石岡タロー』」という名の勇者 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 今、『石岡タロー』という1本の映画の波が、静かに、だが確実に全国に広がりつつあるのをご存じだろうか。

 これは数十年前の昭和から平成にかけて、茨城県の石岡市であった実話の映画化で、子犬の頃にとある事情から飼い主の女の子とはぐれて迷子になってしまった犬のタローが、石岡市の小学校に保護され、危うく殺処分を逃れ、かつての飼い主を十数年に渡って待ち続けたという物語。

 新型ウイルスの最盛期という悪いタイミングでの撮影や、インディーズならでのは制作費の中にあって昭和を再現するという大変な作業、その他諸々の事情により苦心惨憺して作られた作品である。

 私はこの映画の監督、石坂アツシさんと昔仕事でご一緒した事があり、当時の彼はゲーム製作のディレクターで、私はゲームシナリオの担当だった。後に彼は映画監督となり、インディーズを中心に活躍しつつ現在に至る。長い間連絡を取り合っていなかったのだが、Facebookがきっかけで再び交流が始まり、彼が作った短編に私が私見を述べたり、たまに一緒に食事をする仲である。また、同年代で互いに大の映画好きなので、気の合う仕事仲間と言った関係だろうか。

 ある時その石坂監督が、久しぶりに一緒に食事をした折りに、「こないだまでずっと犬の映画を撮ってましてね……」

 と言い出したのが、私が映画『石岡タロー』のクラファンに参加するきっかけである。

 

 この場合のクラファンとは、映画の制作費を集めるという事ではなく、映画は完成したものの上映してくれる映画館がなく、それを探し、宣伝をし、少しでも上映館を増やしていくという、まるでわらしべ長者のような作業をしなければならず、そのためにかかる費用をクラファンで集めようという事だった。

 彼は忖度などというくだらない事はしない人なので、率直に近況報告としてこの話を私にしただけだった。

 私も私で、仮にそのクラファンに参加してくれないかと言われたとしても(彼はそんな事は絶対言う人ではないし、現に言わなかったが)、もし作品の内容がよくなければ例え開いてが知り合いでも参加しないタイプなので、その時は「そうですか。そりゃあ大変ですね」程度の返事しかしなかった。

 だが、どこかで確信はあった。

 これまで彼の短編を何作か見てきた中で、その独特のナチュラルな演出は高く買っていたので(くどいようだが、知り合いだからではない。その辺はお互いプロとして冷静である)、あの自然な感覚で、「飼い主を気の遠くなるような年月待ち続けた犬」という題材を撮ったら、間違いなくいい映画になる、と。

 そこで、私の方から自主的に、まだ完成した映画を観ていない状態だったがクラファンに参加した。今だから言えるが、「もし出来がよくなかったらどうしよう……」という、わずかなドキドキ感もありつつ。

 

 そして今年の夏、クラファンの成果だけではなく、石坂監督と彼を支える公開促進スタッフの大変な努力によって、ようやくご当地茨城県内3館での公開が決まり、それに先立ち石岡市のシネコンで試写会が行われた。同時刻にオンラインでも試写を観る事ができたので、私は東京からこのオンラインで初めて作品を観た。

 ホッとした。

 どころか、これは「石坂監督の頭脳戦の勝利だな」とも思った。彼の持つ独特のナチュラリズムが光彩を放ち、実話の映画化で最も重要な「事実のていねいな積み重ね」がしっかりと、かつ実に自然になされていて、つまりはよく言う「泣かせの動物映画」になっていない。淡々と積み重ねられていくタローの数奇な運命を観ているうちに、自然に泣いてしまうという、彼の生まれ持ったのであろうナチュラリズムが作品と見事にマッチした素晴らしい仕上がりだった。

 私の懸念は払拭され、後はただひたすらSNSで折に触れ情報を拡散させ、最近続けているウォーキングの時にはクラファンのリファインにいただいた『石岡タローTシャツ』を着て歩くというささやかな応援を続けた。

 現在では、尚も茨城県内での公開が続いているうえに(一部の館は終了)、他県にもひたひたと進出し、上映館は増えつつある。

 いい映画がSNSの口込みや実話のご当地でのヒットによって全国に広がっていく。まるで、長い間飼い主を待ち続けたタローの情念が乗り移ったかのような感すらある。

 

 この映画『石岡タロー』は、日本映画の現状に対して二つの点で果敢に挑戦している。

 一つは、上で書いた「公開できる映画館も決まっていないのに、ひとまず映画の内容だけに全精力を注いで完成させた」事。

 公開できる館が決まっていなければ、インディーズ映画の場合は当然自ら館を探さなければならず、たいていの場合はいわゆる単館のミニシアターに落ち着いてしまう。全国公開するには、メジャーの巨大な壁が立ちはだかり、そこに入り込む余地はほとんどないからだ。

 だが、私と食事をしていた時、石坂監督は言った。

「この映画は絶対にミニシアターにはかけたくない(ミニシアターが悪いという意味ではなく)。ファミリーで観て楽しんでほしい。だから全国公開のシネコンにかけないとダメなんです」

 その監督の執念たるや私もたじろぐほどだったが、この挑戦がいかに困難な事か、同業者である私は痛いほど知っている。それどころか、現実にはほとんど不可能に近い。だからこそ、インディーズの映画はミニシアターに落ち着かざるを得ない、という事情がある訳だ。

 監督は相当な苦労をし、ようやく茨城県内のシネコンでの公開にこぎ着けた。それを起爆剤として、少しずつ全国に上映館を増やしていこうというのだ。文章で書くと簡単だがこれはよく言えば壮大、悪く言えば無謀な挑戦である。しかし彼はそれをやってのけ、今なお全国公開に向けて日々動き続けている。その努力の結果、他県にも少しずつ公開の輪が広がっているのだから、本当に頭の下がる思いである。

 もう一つは、上で書いた「石坂監督の頭脳戦」。

 例えばメジャーの映画会社がこうした題材の映画を作る場合、「こうすれば泣ける」とか、「こうすれば当たる」とか、あるいは「動物は可愛ければよく、人間ドラマで泣かせろ」とか、要は「当てるためにこうしろ」という指示がシャワーの如く降ってきて、作り手の我々はやりづらい事この上ない。皆さんも、過去に動物映画を観た時に「確かに登場する動物は可愛いが、これは感動の押し売り、単なる『泣かせによるヒット』を狙った映画ではないか」と思った経験が少なからずおありだと思う。内容はそっちのけで、「いかに当てるか」しか議題に上らない会議が延々と続いた結果、そうしたあざとい映画が出来上がってしまう。

 石坂監督は、インディーズの強みである「製作時の自由度の高さ」を最大限に利用した。これが彼の頭脳戦で、インディーズでは上記のような妙なシャワーは降ってこないから、脚本を作る際(石岡タローは監督自ら脚本を担当している)も、撮影時も、かなり監督の撮りたいように撮れる。一方で、自由に撮れるが故に独りよがりになりがちなのもまたインディーズ映画で(勿論全てがそうとは言わない。あくまで一般論)、だが、彼はその゜自由度の高さ」という利点を生かして自らが持つ天性のナチュラリズムを炸裂させた。

 つまり、「泣けるけど『泣かせ』ではない映画」、タローの運命を細やかに自然に綴っていった結果、観客が気がつくといつの間にか泣いているという見事な手腕を発揮したのである。そこにはメジャー特有の「あざとさ」の徹底的な排除があり、私がこの作品を高く評価している最大の理由も正にそこにある。

 そう、『石岡タロー』は、「泣ける映画」だが「泣かせの映画」ではないのだ。

 上の写真の一部にわざと影をつけたのは、こうした日本映画の「悪しき影」をタローが切り裂いていくイメージが私の中にあったからだ。

 

 この二重の挑戦をし、今だその挑戦は続いているものの、私には石坂監督と保護犬の石岡タローが、「既成の日本映画に果敢に挑む勇者」に見える。

 業界の実情を知っているが故に、そこには強い尊敬の念を覚える次第である。

 なお、再三で恐縮だが、私は彼が知り合いだからこうした記事を書いたりクラファンに参加したのではない。

 このブログを長年読んでくださっている皆さんはご存じだと思うが、私は自分の目で見て「これは良作だ」と思った作品しかブログで紹介しない事にしている。それは、このブログを7年前に始めて以来ずっと貫いてきた。

 だから、どうか信用していただきたい。

 映画『石岡タロー』は、上記の如き挑戦も含めて、今の日本映画の壁を突破し得る、奇跡のような良作だと言い切れる。

 

 まだまだ石坂監督とタローの挑戦は続く。

 日本映画にどこまで風穴を開けられるか。

 

 見守っていきたいと思っている。