゛If …… “ 終戦の日に一番大切な事 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 私の大学時代の同級生の女性が、かつて北海道に移住し現在はかの地で市議会議員を務めている。その一方で、彼女は戦争体験を語り継ぐ活動にも取り組んでいると聞く。

 戦争体験者の高齢化が進む中、これは貴重な活動であり、同級生として誇らしく思うと同時に頭の下がる思いだ。何故なら、体験者から直接戦争の実相を聞くというのは、得がたい経験であると同時に、確実に後の世代にバトンを渡していく事に他ならないし、そのバトンを途切れさせてはならないからだ。

 

 今日は8月15日、終戦の日。

 もしかするとこれまで様々書いてきた記事内容と重複する部分もあるかもしれないが、最後までお読みいただけると幸いである。

 

 私は1962(昭和37)年生まれで、当然ながら戦後世代である。直接太平洋戦争を体験してはいない。

 だが、私が子供だった60年代から70年代は、親の世代が戦争体験者だったし(体験者と言っても、私たちの親世代は大戦中は子供だったのだが)、祖父母の世代になるとモロに体験者ばかりだった。

 そのせいか、親からは「戦争末期や戦後すぐが、子供たちにとっていかに過酷な時代だったか」という視点から、特に食糧難に苦しんだ話をよく聞かされた。また、祖父母の世代からは、自分の従兄弟が出征、戦死し、その報告が届いた時に従兄弟の肉親がショックのあまり倒れてしまった話、祖父などはトタン職人だったせいで軍属として南方の日本陸軍基地まで行き、兵舎のトタン屋根をふいていた人だったので、その時に直接体験した戦争のおぞましい記憶を話してくれた。無事に帰国した軍人の中には、「後に戦争の事は語りたがらなかった」という人が多かったとも聞くが、私の祖父は軍人でなかった分、話しやすかったのかもしれない。

 

 それはさておき、「戦争を語り継ぐ」という作業に関して、いつも考えている事がある。

 それは、「語り継ぐのは極めて大切だし意義のある事だが、その場合、『語りを聞いた人々』が、その後どう思考するかが最も重要なのではないか」という点。

 例えば、極論すれば聞いたはいいが「ふーん、戦争の時って大変だったんだね」だけで終わってしまっては、これはバトンがリレーされた事にはならない。戦争の実相について触れた戦争未体験者が、戦争に対して強い危機感を覚え、故に自分の子供世代にその話を聞かせ後の世で戦争が再発しないようにストッパーの役割をする、そうして初めてバトンはつながる、つまり「戦争体験が語り継がれた」事になるのではないか。

 これは文章で書いてしまうと簡単だが、実際にはそう簡単な事ではないと思う。何故なら、結局は自分が体験していないのだから「なになにだったらしいよ」で終わってしまう可能性が高く、それを聞いた子供も「~らしかった」で思考が止まってしまい、ではこの先自分たちはどうすべきかまで考えが進まない可能性があるからだ。

 

 しかし、それでもなお私の友人の議員の活動のように、この語り継ぎは必要だし、途絶えさせてはならないものだ。

 ならばこの、人類にとって重要なバトンが確実に手渡されるためにはどうすればいいのか……。

 私は、「If……」にその可能性を見いだしている。

 

 つまり。

 「もし、聞かされた太平洋戦争の惨劇が、過去の話ではなく、正に今自分の住んでいる街で巻き起こり、自身がそれに巻き込まれていったらどう感じるか」

 おそらく、子供に限らず、誰もが慄然とするに違いない。

 例えば(あくまで「仮に」という想像上の話だが)、今仮に東京で、かつての東京大空襲と同じ空襲があり、自分が米軍機の投下してくる焼夷弾の下を命懸けで逃げ回る羽目に陥ったらどんな気持ちがするか。

 あるいは、親や兄弟、親戚の誰かが出征して戦死した話を聞いた時、もし今戦争が起き、自分の親や兄弟、親戚のいとこ等が戦争に行き死んでしまったら、どんな気持ちになるのか。

 この「もし今、ここで……」とか、「もし今自分の身内が戦争で……」とか、語り継がれたその事象を今の自分の環境に当てはめる想像力がぜひとも必要で、その、一件突飛だがやけにリアリティのある想像ができた時、子供に限らず誰しも「そんな事はまっぴらだ」と思うのはまず間違いなく、つまりは耳にした戦争の事象を自分の身に置き換える想像力があるかどうか、「If……」をバーチャルリアリティの如く自分の脳内に映像として再現できるかどうか、それが、語り継ぎのバトンを途切れさせずに済む唯一無二の方策なのではないか。

 私は日頃からそう考えている。

 

 太平洋戦争、第二次世界大戦に限った事ではない。

 以前にこのブログにも書いたが、ロシアによるウクライナの惨状のニュースをテレビで見た時、「遠い東欧の出来事」として眺めているだけでは、それは単に観客になっているに過ぎず、その人には戦争に関する実感が伴わないだろう。

 だが、一度「もし今、自分の住んでいるこの街で、あのウクライナのニュースと同じ侵略戦争が起き、自分がその戦場に引きずり込まれていったり、自分の家族や友人がそのせいで命を落とすというような事が起きたら、自分はどう感じるだろう……」という思考、つまりは想像力をもってしてニュースを見た場合、ただボーッと見ているのとはまるで違う、戦争に対する危機感が湧き上がってくるに違いない。

 当たり前の話で、誰しもそんな体験など絶対にしたくないからだ。

 

 この、「もし今の自分の街で同じ事が……」という想像力、耳で聞いたりニュースで見たりした戦争体験を自分の身に置き換えられる想像力、これこそが、実は核兵器などよりよほど強力な戦争抑止力なのではないか、と思っている。

 しかし、それこそ「もし」、この想像力が多くの人々から欠落してしまった場合、誰かから聞いた、あるいはニュースで接した戦争体験はその人々の中で他人事と化し、理屈では「戦争はよくない」とわかってはいても、人類が持つ巨大で複雑な国際政治のメカニズムの中では、いとも簡単に戦争が勃発する事態になりかねない。以下は多少絵空事で自分でも「そんな事は有り得ない」と思わないでもないのだが、もし、ロシアの国民全てが、ウクライナで起きている事を自らに置き換える事ができたなら(情報統制がなされているから現実にはそうはならないのだが)、国民総出でプーチンを止めにかかるという事態だって起きないとは限らない。

 要は、「もし自分に同じ事が起きたら」と置き換えられる想像力がいかに大切か、それがいかに強いプラス方向の力、戦争を抑止する力になる得るか、私たちはそこを日頃から自覚している必要がある。

 国際政治のロジックのみで戦争を否定したところで(これはテレビでよく見かける専門家に多い傾向だが)、そこに実感が伴わなければ否定は上滑りするだけで、戦争を止める力にはなり得ない。

 

 さっき、台風の影響の雨を避けながら深夜にウォーキングをした。

 写真はその時撮った新宿だが、お盆休みという事もあり、街はいつになく静かだった。と同時に、台風の雨が降っているにも関わらず、かなり平和な光景にも見えた。

 この光景(平和)を継続させるには、人々の「想像力」が不可欠なのではないか……。

 夜更けの街を歩きながら、そう強く感じた終戦の日。

 

 あなたには、「If……」の能力が備わっていますか?

 

 そしてそれがあるなしに関わらず、一度でも「もし今の自分に……」と想像した事がありますか?

 

 終戦の日に考えるべき、一番大切な事だと思う。