このブログを始めた2016年の秋、新しいPCを買ったという記事を書いた。それから約5年半、先日そのPCのモニターが怪しげに壊れ始めたので、ハード一体型のモニターがいかれるとにっちもさっちもいかなくなる都合上、上の写真の新しいのに買い換えた。
前にも書いたが、私はキーボードのキーに弾力があって強く跳ね返ってくるタイプでないとどうも原稿が書きづらいのでノートPCだと脚本が書けない。よっていまだにこうしてデスクトップを買い続けている(会議の時の、タッチペンによるメモ用のタブレットは別に使っているが、それはあくまでメモ用で、私にとってはタッチペンはボールペン、タブレットの画面は紙にプリントアウトした原稿と何ら変わりはない)。
さて。
数年前に自分でも信じられないほど映画を見まくっていた頃、ロシア映画もよく見た。WOWOWで放送された最近の映画が多く、しかもほとんどが戦争映画だった。第二次大戦中のソ連軍の活躍を描いたものが多かったが、中にはチェチェン紛争を題材にした現代戦の映画もあった。
いずれもどえらい迫力とリアリティのある戦闘描写で、正直CG依存のひどい西側の(近頃またこの『西側』なる言い回しが流布していて、昭和生まれの私としては時代が逆行したようで妙な気分なのだが)戦争映画など到底かなわない戦闘シーンの作品が多かった。
だが、もう一つ「いずれも」という前提のつく事柄がある。
どれもびっくりするほど鼻につく「プロパガンダ臭」が強く、昔の戦争の物語なら、「かつてのソ連軍人はいかに勇猛果敢であったか、そして彼らなくしてソ連と現在のロシアの繁栄はあり得なかった」という、時代錯誤もはなはだしい露骨な国策映画が圧倒的に多くて辟易した。
一番ひどかったのは現代のチェチェン紛争の映画で、ロシアは何も悪くない、ただ、チェチェン人は悪魔の如き、または野獣の如き存在で、殲滅しなければこちらの命に関わるという描き方で、映画に登場するチェチェン軍の兵たちは一切しゃべらず、ほぼ「エイリアン2」のエイリアンたちのように扱われていた。
そうしたプロパガンダ戦争映画があまりに多かったので途中から「今のロシアの戦争映画」は敬遠するようになってしまったのだが、今どき、国家をあげて戦争映画で国民にプロパガンダをしているなんて、ロシアという国は一体どうなってるんだろうと思ってはいた。
そこへ今回のウクライナ侵略である。
いや、四年前のクリミア併合から既に事は始まっていた訳だが(あれは今思えば『併合』などと穏やかな言葉を使うべきでなく、他国の一部地域に対する『一方的な強奪』に他ならないと私は思っている)、今度は遂にウクライナ全土に乗り込み、首都キエフを陥落させようとしている。プーチン大統領の真意はさておき、これが侵略であり暴挙であり殺戮である事は間違いない。
ニュースを見ていると、数年前に途中で根負けして見なくなった数々のロシア製戦争映画が思い出され、どうも鬱々とした気分になる。あれだけあからさまなプロパガンダ映画を平気で量産している国なら、隣の国に攻め入るくらい、感覚的にはさほど気にならないのではないか、だとすればかように恐ろしい国家もないものだ、という気分になる。
一方、ウクライナ各地の惨劇やゼレンスキー大統領のコメント、演説の数々も多々報道されていて、実は私は、これにも少々手を焼いている。
「手を焼いている」とは、今のウクライナを巡るかの国とロシアの攻防がかなり情報戦の様相を呈していて、しかも世界中の報道が双方の発表を垂れ流しつつ右往左往しているから、「真実は何なのか」がさっぱり見えてこず、困惑しているのだ。
無論、冷静に見て、ウクライナに多少なりとも非があるとは到底思えないし、何より罪のない民間人に対する容赦ないロシア軍の攻撃は言語道断である。しかしそれにしても、一度ロシアの発表やロシア報道機関による情報に触れてしまうと、西側の報道がそれに疑問を投げかければなげかけるほど、つまり「嘘つくなよ」というニュアンスの情報に触れれば触れるほど、所詮は戦争なのだからウクライナ側とて生き残りを賭けて、また世界を何とか味方につけて支援してもらうためには、ロシアに対して熾烈な情報戦を展開しているのが物の道理というもので、どちらの、どの、誰が発信した情報を「真実」として見極めればいいのか、判断がつかなくなってくるのである。
私は脚本を書く時、題材によってはかなりの資料調べや取材をする。その場合一番気になるのは、「何が真実か」という事で、題材に関する当事者は都合の悪い事は言わないし、その題材に関する書籍とて、詳細が書かれている物ほど「この事件なり何なりは善だったのか悪だったのか」、そのどちらかサイドに立った記述が多く、審判のように冷静に書かれた物の方が少ない、というのが私の長年の印象である(そういう客観的な書物もあるにはあるのだが、数は決して多くはない)。すると、たちまちその事柄の「真実」は見えづらくなってきて、「はて、脚本に落とし込む時どうすべきか」と悩んだ経験は一度や二度ではない。
現在のロシアによるウクライナ侵略もまさにそうで、双方による戦略的な、または戦術的な「情報戦」が展開されている以上、それは我々が実際に本物のミサイルの中身をテレビ画面からは覗けないのと同様、情報の中身がどうなっているのか、そこに真実がどの程度含まれているのか、そこがわからないのだ。
個人的にはロシアはいち早く矛を収めて自ら停戦すべきだし、ウクライナもこれ以上の民間人の犠牲者を出さないために(ひとまずはそれが最優先なのは間違いないので)、ロシアとの交渉で妥協点を探り、一刻も早く「ロシアに帰ってもらう」事に集中すべきだと思う。戦争に「理」や「利」などあるはずもなく、戦争とは「百害あって一利なし」なものだからだ。
プロパガンダと言えば。
今のウクライナ情勢を巡って、ロシアにどう対処すべきかかなり困惑している中国という存在がある。
中国映画でも、最近の戦争映画をずいぶんたくさん見たし、あちらのドラマなどでは、日中戦争の頃の日本軍が中国大陸でいかに悪辣だったかという描写を延々と繰り広げるものもずいぶん見た。私は日本人が悪役にされていても全く気にならないタチなので、「なるほど、中国側から見ればこう見えるよな」程度にしか思わなかったが、これが、コト現代戦を描いた作品になると、ロシア映画同様、あまりに露骨で思わずあんぐり口を開けてしまう映画にも何度か出くわした。
例えばある戦争映画では、現在の人民解放軍の中の海軍内に米海兵隊で言うところのSEALSのような特殊部隊があり、この特殊部隊がアフリカの小国で起きたクーデターに巻き込まれ内戦の地で孤立している、現地在住の大勢の中国人民間人を救出しに行くという内容だった。
軍の全面協力で、空母も装甲車もへりも戦闘機や哨戒機も何もかも本物を使っているから、その迫力たるや尋常でなく、「これをやられちゃCGなんて子供の遊びに見えちゃうよな」などと思いながら見た。
だが、問題はそのラストシーン(ネタバレにはなるが、書かないと言わんとすることが伝わらないのでやむを得ず。どうぞご容赦を)。
この「民間人救出作戦」が特殊部隊側に何人かの戦死者を出しながらも成功し一件落着した後、シーンは突如太平洋を轟々と
航行する中国海軍の大艦隊を映し出す。主役たちが海軍の特殊部隊だからというかろうじてのつながりなのだろうが、そこに、ロシアの戦争映画同様の、見ているこちらが口あんぐりの字幕(もしかしたらナレーションだったかもしれないが、忘れてしまった)がのっかる。
内容は概ねこんな感じだった。
『そして、南シナ海は我が国(中国)固有の領海である』
開いた口がふさがらないとはまさにこれで、映画本編の、「アフリカの小国から民間人を救出する」という本筋とは全く関係なく、無理矢理「そして」とつなげ(実際には物語とつながってすらいないのだが)、アフリカとは何の関係もない南シナ海の所有権を主張して映画は終わるのである。
せいぜいよく言って「プロパガンダここに極まれり」、悪く言えば「あまりに幼稚でプロパガンダにすらなっていない」幕切れで、呆れるやら苦笑いするやらで劇場を出た。
今の中国映画の場合、もちろん全てではないにせよ、戦争映画に限らず、例えばアジアの麻薬地帯を中国の麻薬捜査官チームが一掃するようなアクション映画でも、「こうしてアジアの安全は中国によって守られているのだ」的な露骨な宣伝臭が漂う作品にでくわすケースがある。
中国のアニメの仕事を時に引き受ける関係から、たまに似たような「プロバガンダ臭」のするテレビアニメ企画の依頼が来る事があり、その度に「小さな子供が見るテレビアニメにプロパガンダを忍び込ませるのは、私に言わせれば『国家的犯罪』に等しい。なのでこの仕事はお引き受けできません」と、都度断っている。すると、発注してくるあちらの会社のプロデューサーは「ですよね」と苦笑いし、そこでいつもスッと話題をやめてしまう。
ただ、まさか中国当局が私のこんなどうでもいいブログまでチェックしているとは思えないものの、彼らのために念のため書き加えておくと、この場合の彼らの「ですよね」は、私の意見に賛同した「ですよね」ではなく、「十川さんならたぶんそう言って引き受けないと思ってましたよ」という意味の「ですよね」であって、彼らに国策に反対する意思がある訳ではない。そこは「真実」である。
現代の情報戦の凄まじさと、あまりに時代錯誤的なプロパガンダが混在している今の国際社会。
何がどうなっているのか、「真実」はどの辺りにあるのか、見極めるのは情報量が昔の大戦時に比べて膨大に膨れ上がっているのでかなり難しい。
思えば、2022年の春は、こんなやっかいな春になっている。