自助とは言うけれど | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 毎日忙しい。

 仕事が重なり、全てをこなすためにはのんびり深夜に原稿を書くだけでは追いつかず、年末くらいからすっかり朝型になってしまった。早朝に起きてから午後遅くまで目一杯原稿を書き、早めの夕飯を食べた後にちょっと仮眠、夜もまた原稿を書き、翌日の早起きのために遅くとも12時までには寝る。毎日その繰り返しである。

 元々脚本を書くのが好きなので苦にはならないものの、58歳ともなると体力的にはかなり厳しい。もっと体を鍛えておけばよかったと思ったり、いやいや運動嫌いの私には到底無理だと思ったり、これもまたぐるぐると繰り返し頭の中を回っている。

 そんな日々である。

 

 上の写真は愛読している雑誌『月刊エアライン』で、旅客機に関するあれこれが毎月詳細に載っているのだが、昨年から記事に変化が現われ始めた。

 ご存じの通り新型ウイルスの影響で国際線・国内線ともに減便が相次ぎ、その状態は微妙な増減を繰り返しつつも今なお続いている。つまり、「飛行機が通常通り飛んでいないと新鮮な記事が減る」という事実が紙面に如実に現われていて、減便の話題ばかりでは読者も気が滅入ってくるから、上の写真の今月号のように、いきおい「ランウエイ物語」=「滑走路とは何ぞや」とか、各航空会社の歴史を振り返る特集だったり、いずれも飛行機好きには面白いものの、新たな記事が少ないためにどうしても過去記事や脇道にそれた記事が中心になり、毎月編集部が四苦八苦している様子が忍ばれる内容になっていて、それはそれで頭の下がる思いである。

 

 これはつまり、我々が昨年から一向に出口の見えない「新型ウイルストンネル」の中に居続けているからそうなっているのだが、最近、こんな状況の中で飛行機雑誌を漫然と読んだり、飛行機模型を仕事の合間にちょっとずつ作ったりしながら、管首相がよく言う「自助」という言葉が頭に浮かぶ事が多くなった。

 

 この「自助」とは、私なりの解釈では、「まずは自力で何とかこの危機を乗り切ってください」という意味だと思うのだが、アニメ業界で働いている私などは、幸いにしてこの「自助」を何とか維持している。仕事は自宅作業だし、昨年から会議は感染防止でほぼ全てリモートに切り替わったし、生来の出不精もあり、つまり家からほとんど出ないので、せいぜい近所のスーパーに行った後に手洗いなどちゃんとしていれば、まず感染するリスクは低い。しかも、困っている方々には申し訳ないようだが、苦労しつつもアニメ業界は何とかこれまで通りに動いているから、減収の危機もない。

 

 だったら「自助」を気にする事はないじゃないかと言われそうだが、私がこの言葉から連想する事どもとは、すなわち「もはや公的機関に頼り切りでは命に関わる」という事を痛感しているからなのだ。政府が必死にウイルスの拡大を抑え込もうとしているのは間違いなく、「対策が後手後手だ」とか「庶民の大変さ、特に飲食業・観光業等の苦しさがわかっていない」とか批判がたくさんあるのは知っているし、私もそう思う。

 しかしそれは、「自助」の難しい業種の人々に対する対策が後手に回っていたり、あるいは時に切り捨てとも取れる施策があったりするからそういう批判が出るのであって、ここは一つ、「自助」の意味を捉え直さなければならない気がしてきている。

 納税義務を履行している以上、政府や行政に頼るのは当然としても、頼るばかりでは生き残れない、それが新型ウイルスの恐さだと思うのだ。頼りすぎずに、「何としても自力で生き抜いてやる」という覚悟がないと、この危機を乗り切るのは容易ではない、と。

 

 それと首相はよく「自助」の次に「公助」であると言うが、私はそこに順番付けをする事自体間違っていると思う。

 「自助」の可能な人とそれが無理で「公助」に頼らざるを得ない人は順番ではなく別次元で考えるべきで、政府は何が何でも完璧な「公助」を履行する必要がある。それこそが、真の意味での「国民の生命・財産を守る」という事であり、「まずは自助」などと言っている時点で、発想のベクトルが妙な方向を向いてしまっている。極論すれば、「自助」の可能な人については感染対策を頼みますよとお願いする程度でよく、そうでない、公助を必要とする人や職業、業界に対して、国家の総力を上げて「公助」すべき状況なのではないか。財源の問題や、省庁が根源的に抱える組織の融通の利かなさ等々、立ちはだかる障壁が多い(というか多すぎる)のはよくわかる。しかし、だからといって、公助を必要とする人々を最優先しないでどうする?という憤りも強く感じる。

 これは決して、私が「自助」できる立場だから上目線で言っているのではない。

 人の生きる権利が新型ウイルスによって脅かされている時、国家が何をなすべきか、それは言わずもがなで、生活の危機=命の危機に瀕し、生きる権利を自力では行使できそうにない人々に対して、それを全力で助けるのが『国家』というものではなかろうか。しかし、今の政府の様子を見るにどうもそうしているとは見受けられず、いつも何となく歯がゆい思いをする。

 だから「頼りすぎずに自力で生き残るしかない」と私などは思うのだし、そうはできない人々は国家から何としても救済されるべきだ、とも思うのだろう。よって、仕事の時以外はいつも、頭の中を「自助」という言葉がぐるぐる回ってしまうのかもしれない。

 

 何と言っても、毎月送られてくる『月刊エアライン』に、新規路線が華々しく開業したとか、最新鋭機がどこそこの航空会社に納入されて記念式典が行われたとか、そういう記事を普通に読める日が一日も早く来てほしいのである。

 

 自助とは言うけれど、政府自ら、「まずは」という言葉をそこにつけてはいけないと思っている。

 

 どうだろう。