THE MULE | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 この記事には現在公開中の映画「運び屋」のネタバレがあります。

 どうぞご注意ください。

 

 

 

 おとといから一週間ほどヒマになったので、久しぶりに映画館に行ってきた。

 クリント・イーストウッド監督・主演の「運び屋」である。

 これはひょっとしたら多くの方が書いているかもしれないが、子供の頃から彼の映画をずっと見続けてきた身としては、「イーストウッドが88歳にして演じる90歳の麻薬の運び屋」と聞いては劇場で見ずにいられず、仕事の手があくのをずっと待っていた次第。

 待っていた甲斐があった。

 

 90歳にして、ひょんな事からメキシコの麻薬カルテルの麻薬の「運び屋」となった男がいる。

 彼は若い頃朝鮮戦争に出征していて、帰国後は園芸家として花を育てて暮らしてきた。だが、園芸家といってもその暮らしは穏やかではなく、花に関する仕事でアメリカのあちこちをピックアップトラックで飛び回り、本人曰く「家族のためにずっとこの広い国を走ってきた」と。だが、働き者だった事は間違いないにしても、その暮らしは放蕩三昧で仕事にかこつけて家族を全く顧みず、家庭はとっくの昔に崩壊している。妻とは離婚していて、娘にはずっと口もきいてもらえない。そんな、「ダメ父」である。

 その彼がテキサスからシカゴまで車で麻薬を運ぶ仕事を請け負う事になる。

 当初は荷物が麻薬だと知って驚くが、どうせ家族などあってないも同然だし、口でこそ言わないが老い先短いし、そもそもずっと自由気ままに生きてきたのだから、(これも台詞では言わないものの)「まあ、金もらえればいいか」くらいの気持ちで何度もヤクを運ぶ。

 しかし「カルテルが黒い車で国道55線を使って大量の麻薬を運んでいるらしい」という情報は麻薬捜査の当局にも入るようになり、シカゴに赴任してきた捜査官(ブラッドリー・クーパー)が捜査に乗り出す……。

 

 以下は、上記とは逆でどれくらいの人が書いているのかわからないのだが、この映画でイーストウッドが演じたアールという老人のキャラクターは、彼にしては珍しい役柄である。

 コメディ・キャラなのだ。頑固ではあるがどこか気のイイおじいさんで、最初は強面だったカルテルのギャングたちも、次第にこのおじいさんにほだされるように仲良くなってしまう。だいいち本人が結構いい加減な人で、長年家族を顧みずに放蕩してきた人物でもあるので、飄々として深刻さに欠けるのだ。だからこそ自分の運んでいる荷物が麻薬だとわかってからも、「でも、お金もらえるし」と飄々と運び屋に徹する様が、どうにも可笑しい。日本で言えば、かつての松村達雄さんが演じそうなキャラをイーストウッドがやっている、と書けば、これまでの彼とは違うという事がおわかりいただけようか。

 しかも、私は脚本家なのでどうしても脚本が気になるのだが、この脚本は明確に古き良きハリウッド・コメディの要素を踏襲している。「90歳のヤクの運び屋」なる大前提がそもそも微苦笑する基本設定なのだから、それに合わせてクスリと笑える台詞、構成が多いのだ。近頃のイーストウッドは「ハリウッドの映画巨人」のような印象になってしまっているからあるいはそうは見えない映画かもしれないが、もう一歩想像力を映画制作の過程をさかのぼって働かせた場合、この脚本は単に文章で読んだ時には、読み物としてかなり笑える脚本になっているはずだ。

そして笑いの合間に人生の機微がさりげなく挟まれている辺りが、「古き良きハリウッド・コメディ」の体裁だと指摘した所以である。

 

 ところが。

 昔から驚くほどの自然体でカメラの前に立つイーストウッドは、自ら演出する時もいつもその「自然体」を基本としていて、歳を重ねたせいもありこの「運び屋」ではもはや見ているこちらがたじろぐほどの「自然体の極致」の如き佇まいである。

 その様は確実に他の俳優にも伝搬していて、捜査官役のブラッドリー・クーパー、彼の相棒のマイケル・ペーニャ、彼らの上司のローレンス・フィッシュバーン、果ては元妻役のダイアン・ウイーストに至るまで、全員がいつもとは違う「その辺にいる人々」の佇まいを表出している。人気者の彼ら彼女らの過去作を思い出してもらえれば、彼らが常にそうした「立ってるだけ」のような演技をしない人たちだという事はおわかりだろう。かつて「硫黄島からの手紙」に出演した二宮和也が、「あれ?いつの間に撮ったの?と思うくらい自然な本番だった」と言っていたが、この映画の出演者たちも、このイーストウッドマジックで「いつの間にか自然体」の状態になっていたのかもしれない。

 この、「こちらがたじろぐほどの自然体の塊」を持って、イーストウッドは「ダメ男」の心情に迫っていく。その時、彼がフツーの老人として画面に存在しているからこそ、彼が過ごしてきた人生の悲哀や後悔、一見フツーに見えて結構波瀾万丈だった生涯がじわりとあぶり出しの絵のように浮かび上がってきて、たとえ脚本がよくできたコメディだとしても、ありきたりな喜劇とは段違いの味わいが生まれている。死期の迫った元妻の家に、麻薬を運んでいる最中にも関わらず危険を冒して現れ、ずっと憎まれていたはずの彼女から「どうしてだかわからないけど、来てくれてとても嬉しい」と言われ、得も言われぬ表情を浮かべる時のアール。最終的に当局に逮捕され、しょんぼりして車の後部座席に座っていると、クーパーの捜査官から「お体に気をつけて」と声をかけられた時の、これも得も言われぬ表情のアール。イーストウッドが造形した「飄々とした、気はイイがいい加減なおじいちゃん」は、しかしここでそのキャラクター故に真価を発揮し、ラストに一つズドンと重厚な「人の一生」が出現する。

 いつもはやらない役柄だったからこその、鮮やかな幕切れがそこにあった。

 

 近年のクリント・イーストウッドという存在について、知り合いのアニメの監督さんがこう言っていた。

「長年アクション・スターとして生きてきて、歳取ってから監督作をどんどん撮ってて、しかもそれがどれも秀作揃いって……あれはもう、人間技とは思えないよ」

 私は監督ではないが、やはりそう思う。

 ずっとスクリーンで見続けてきたイーストウッドが今なお現役で、監督としても異彩を放ち続けており(この「異彩」は褒め言葉です)、さらには80代後半にして役者としてカメラの前に立った時、いつもはやらないような役作りをしてくるという驚異。90歳で麻薬の運び屋をしていたという老人同様、イーストウッドのそうした在り方自体にも、目が点になるほどの驚きを覚える。

 そうした実話の老人とイーストウッドという希有な存在がシンクロしたが故に、この映画、二倍の驚きに満ちているのである。

 少なくとも、マニュアルやリサーチにしばられがちな昨今のハリウッド映画の中にあって、この映画自体がとびきりユニークで異彩を放っている事は間違いない。

 全ては、イーストウッドの存在があるからこそ、だと思う。

 

 「運び屋」。

 多少見る人を(特に見る人の年齢を)選ぶ映画かもしれません。

 ですが、お勧めです。

 

 2010年代の最後にこんなにユニークな映画があった、という事象の目撃者になってみてはいかがでしょうか。