今年に入ってからずっと週に一度、上の写真の高層ビルの建ち並ぶ汐留に脚本会議に行っている。先日の台風一過の午後に撮った。
どこを見回してもスーツのサラリーマンやOLの闊歩する街で、電磁波が渦巻いているせいなのかどうか、いつも妙な疲れを感じながら帰って来る(脚本会議そのものは順調なので、どうも街のせいで疲れるらしい)。
昨夜、塚本晋也監督・脚本の2015年「野火」を見た。
終戦の日を意識した訳ではなく、たまたまである。
大岡昇平の原作を90分にまとめたもので、フィリピンの戦場で行き場を失った一等兵が地獄のようなジャングルを彷徨い、飢餓に苦しむ物語。一等兵は塚本監督自身が演じている。
監督自らがお金を集めて自主映画として製作されたと聞くが、20年来映画化を考えていたそうで、その表現にこめられた執念には凄まじいものがあった。塚本監督は戦場の極限状況の「飢餓」から逃げず、いや、それどころか「戦場で飢餓に直面した兵たちがどんな運命を辿ったのか」という、この世の地獄に執拗に焦点を当てた。ジャングルの下草に無数に散乱する兵たちの死体、あるいは焼かれ、あるいは腐乱しウジが湧き、原型を留めない者も数多い。そんな亡骸を見ている一等兵の心の中で、極限の飢餓故に「あれは……食べられるのでは?……しかし、人としてさすがにそれは……でも……?」という気持ちが少し芽生えていく過程がおぞましい限りで、観客によってはラストまで正視できないであろう仕上がりになっている。
私は、これは塚本監督の傑作であると思った。
勿論戦争の悲劇を語り継ぐには様々な方法があるが、映像作品は往々にして表現に限界があり、ここまで激しく、強いエネルギーをもって戦線の惨状を見せつける事は実に容易ではない。一方、私たちは昔から戦争の記録映像などでこうした惨状を垣間見てはいる。つまり、映像の作り手としては「現実はもっと悲惨だったんだよな」と思いながら、しかしどうしてもそこを避けて通らざるを得ず、通常ここまでの表現はできないものだ。
しかし塚本監督はそこをストレートに描き出した。監督自身のコメントによれば、「今だからこそ、こうした表現が必要だと思った」そうだ。終戦から73年が経ち、当時を語り継ごうという動きは途切れてはいないものの、映像作品に関しては年々当たり障りのない物が増える中、この「野火」の訴える戦争の悲惨は、カンフル剤のように貴重なものである。もし私が「野火」の原作を渡され「脚本化してください」と言われたら、やはり同じ方向に行く気がした。だが実際には通常の商業映画ではあのような表現は不可能だから、塚本監督の自主製作のスタイルが功を奏したのかもしれない。
いずれにせよ私は塚本監督の戦争に向き合う真摯な姿勢に感銘を受けたし、「こういう映画こそ、『日本が世界に誇れる映画だ』と言える」と思った。公開から三年も見ていなかった事を後悔している。
ちなみに、ネットの感想を拾ってみたら「グロい」という意見がちらほらあったが、あれを「グロい」などと無邪気に言っているようでは戦争に対する意識が低いし、そもそもそうした言い方は戦死者に対する冒涜のようにも思う。塚本監督は「私たちが目を背けてはならないかつての真実」を映像化しただけの事で、ホラー映画のグロさとあれは根本的に異なる(その点で、「野火」はイーストウッド監督の「父親たちの星条旗」やメル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」と同一線上にある作品でもあった)。
念のため。
来年には年号が変わるので、平成の終戦の日は今日が最後になった。
私たちが子供の頃、つまり昭和の頃は、まだ戦争が時代に地続きだったような気がしている。戦中に小学生だった私たちの親世代は折りに触れ戦争の話をしていたし、幼いながらも私たちの中に「日本は戦争に負けた国だ」という意識がまだあった時代だ。
しかし、平成になってその気分はだいぶ薄れてきて、今の若い人たちに「日本はかつて戦争に負けた国だ」という感覚はほとんどないだろうと思う。塚本監督が言う「今」とは、そうした「今」である。
平成を通して、この国はひどい経済的苦境を経験し、何というか国家的サバイバルを余儀なくされた。そんな中、それ故に(それだけではないが)戦争の悲惨が薄らいでいった気もしている。私たちが子供だった昭和の高度経済成長の頃は、この国はいえば「いけいけドンドン」で、戦争を語る時にはたいてい、「今の経済的繁栄を見よ。この繁栄はかつての敗戦と平和への希求があったからこそ成し遂げられたのだ」という言われ方が多かった。つまり、今が繁栄しているから、かつて命を落とした兵士の無念を想い、襟を正さなければならない、という論法がひとつあったように思うのだ。
だが、平成になりこの国は様変わりし、どん底の「失われた20年」を経験する過程で、そうした過去を振り返る精神的余裕を失った気がしている。国家が経済的サバイバルに必死なら企業も同様になり、そこで働く人間もまた生き残りに汲々とせざるを得ず、かつての戦争を振り返る「精神的余裕」がなくなってしまうのかもしれない。
しかし戦争の記憶とは、「余裕がないから失っても仕方がない」という類いのものではない。
どんな状況でも、決して忘れてはならないものだ。そうでなければ、それこそ戦死者は浮かばれないだろうし、一体何の為の終戦であり、何の為の平和憲法であったのかという、戦後のこの国の根幹が揺らいでしまうからだ。
30回繰り返されてきた「平成の終戦の日」が終わろうとしている今、そんな事を想う。
で、上の写真。
これは他の記事に使おうかと思って撮ったのだが、今回の記事と一緒にしてみた。
ビルの間に見える空はきれいな夏空だが、下の空中歩道は何とも薄暗く、前方にほのかに光があるものの、その先はよく見えない。写真が下手なので狙って撮った訳ではないが、どうも上半分は平穏、下半分は不穏な風景に見える。
平成が来年終わり、次の時代に突入していく時、この国は上の青空を行くのか、下の暗い歩道を行くのか、どうにも見当がつかないというのが今の人々の気分なのではないだろうか。そうした気分は、昭和から平成に変わった頃よりも、もっと強くなっている気がしてならない。
結局は、どちらの道を辿るかは私たち次第なのかもしれないのだが。
少なくとも。
この国の「戦後」は永遠に続く。
誰もそこからは逃れられない以上、塚本晋也監督の「野火」はぜひ必要なのである。
平成最後の終戦の日に、そんな事を想う。
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