大杉漣さん | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 昨夜、NHKで福島第一原発のドキュメント+再現ドラマが放送されていた。

 最近録画した映画にどうも当たりがなく、「少し映画は休憩しよう」と思いチャンネルをNHKに合わせてみると放送していたのだが、しばらく見てこの記事を書こうと思った。

 番組は、3.11からの2日間に何故メルトダウンを防ぐ事ができなかったのかを検証していて、合間に当時の様子を再現したドラマが挿入される形だったのだが、そのドラマの中で、後に急逝された原発の吉田所長役を大杉漣さんが演じていた。

 次々に起こる異常事態に必死に対処する吉田所長を演じた大杉さんの芝居は、実に生々しかった。本社に対して絞り出すように訴える言葉の一つ一つに異様にリアリティがあり、あれは誰もが思わず見入ってしまう「魂の演技」だったように思う。

 

 2年前に「シン・ゴジラ」を見た時にも、大杉さんの総理大臣役には唸ったものだ。

 英雄ではないしとびきりの人格者という訳でもない。どちらかというと等身大の人物がたまたま総理になっている役作りだった。しかしそんな彼が、放射能をまき散らしながら都心を蹂躙するゴジラに対して、総理として何とか対処しなければならない苦境を、大杉さんは極めてリアルに演じていた(その点、昨夜の原発のドキュメントと同一線上にあるのだが)。

 2月の突然の訃報を聞いて以来、ずっと漣さんの事が頭から離れないまま今日まできた。しかし記事を書くにはどうにも気持ちの整理がつかず、ずっとそのままにしてあった。

 だがきのうの放送を見て、ようやく賛辞と感謝を書く踏ん切りがついた。

 何故か。

 2001年だからもう17年も昔になるが、漣さんと仕事でご一緒したからだ。

 

 フジテレビのドラマ「女子アナ。」。

 タイトル通り、夕方のニュース番組とニュースを読む女子アナたちを主役にしたドラマだった。主演は水野美紀さん。

 漣さんはアナウンス部部長の役で、何かと問題を起こす新人の主人公や、一筋縄ではいかないメイン・キャラクターを相手に右往左往する管理職で、等身大という意味では上の再現ドラマや「シン・ゴジラ」に近いリアルな芝居を展開した。

 私はいつもコンビを組んでいたプロデューサーから依頼を受け、といってメインではなくお手伝いで2話分ほど脚本を書いたのだが、最初の脚本会議の時に驚いたものだ。

 若いプロデューサー(当時)の彼が言った。

「十川さん、このアナウンス部部長の役、大杉漣さんに決まったんですよ」

「え!」

 脚本を書く前から、私は驚き、かつ緊張した。

 大杉漣さんと言えば北野映画の常連だったし、その演技と存在感は折り紙付きである。この当時既に、映像業界では一目も二目も置かれていた。その漣さんが、ドラマの経験の浅い私の脚本に、出演してくれるのだという。

 私は声が裏返りそうになりながらプロデューサーに答えた。

「マジすか。あの、大杉漣さん、ですか」

「そうです。あの、大杉漣さんです」

 プロデューサーは、漣さんをキャスティングできた事が嬉しかったらしく、誇らしげに私に言った。

 

 ところが、いつも忙しかった漣さんはこの時舞台の仕事もあり、スケジュールはとてもタイトだった。私の回でそのスケジュール調整をせざるを得なくなり、2話のうち1話は「アナウンス部部長は海外出張中」という設定にし、漣さんの出番はなかった。ドラマではよくある事だが、「漣さんが自分の書いた台本を演じてくださる」と張り切っていた私は肩すかしを食った格好になった。

 もう1話の方ではアナウンス部部長の出番はあり、これはせっせと漣さんの台詞を書いた。主役ではないのでそう出番が多い訳ではないが、「ここは漣さんのシーンだ」と思いながら書くと、PCの前でゾクゾクした。それほど、当時若かった私たちスタッフにとっては「大杉漣と仕事をするという事」は、誇らしいものだった。

 

 無事に番組が終了し、キャストとスタッフが集まる打ち上げがあった。

 それはレストランを借り切った賑やかなパーティで、ドラマの中の報道番組プロデューサー役で大友康平さんが出演していた事もあり、通常のドラマの打ち上げとはちょっと趣きの違う空気があった。大友さんは大サービスで、一同の前で「フォルテッシモ」を熱唱してくださり、その盛り上がりたるや大変なものだった。

 そして漣さんも、プロはだしのギターとハーモニカの弾き語りを披露し、ドラマのおたおたした役柄とはまるで違う風格で、渋いブルースを歌い上げた。これもまた、共演者とスタッフの大歓声に包まれたのを今でも鮮明に覚えている。

 

 パーティーの途中、大勢の人々でごった返す店内の狭い廊下で、トイレから帰ってきた私はたまたま漣さんと鉢合わせするように二人きりになった。

 直接お会いしたのはこの日が初めてだったので、私は脚本を書いた時と同様緊張しながらご挨拶をさせていただいた。

「あの、脚本の十川と申します。お疲れ様でした」

 素顔の漣さんは何とも気さくな方で、ニコニコしながら私に言った。

「ああ、そうですか。ええと、十川さん……あっ、あの回のね」

「え、ええ……」

 私はしどろもどろになってしまい何を言っていいかわからない。すると漣さんは、頭をかきながら続けた。

「あの役、あんな感じで大丈夫でしたか?」

「え?」

「いろいろ考えてやってみたんですけど、脚本家さんのイメージ通りにできたかどうか自信なくて……」

 そう言われた私は狼狽した。

「いえいえ、イメージも何も、あのおたおたした感じは狙い通りでしたし、脚本よりは渋さも少し滲んでてこちらこそ恐縮です」

 などと、つまらない感想をくだくだ言ったような記憶はあるのだが、細部までは覚えていない。

 ただ、その後の漣さんの言葉はよく覚えている。

「そうですか……じゃあ、よかった。もしまたご一緒する機会があったら、よろしくお願いしますね」

 そして漣さんは、一回りも年下の私に向かって、狭い廊下の暗がりで深々と頭を下げた。私はさらに恐縮して、漣さんよりもっと平身低頭した。

 

 が、なにしろ天下の大杉漣である。

 その後ご一緒する機会はなかった。私も実写からは自然と遠ざかってしまったし。今でも実写をやめた訳ではないのだが、オファーがなければどうにもならない。

 しかし、あの時の、若いスタッフに対する漣さんのさりげないねぎらい、そしてそれを決して押しつけないソフトな物腰、それでいて目の奥に潜んだ役者としての強い光は、今でもまざまざと思い出す。

 優しさと強さが絶妙に同居した見事な「大人」であり、役者として何とも「真摯」な方だった。

 前向き、ひたむき、様々な言葉が思い浮かぶが、一言では言い表せない、「大きな人」だった。

 

 自分の作品歴の配役リストに、

「(アナウンス部部長)平松裕介 大杉漣」

 という名があるのを、今でも誇りに思っている。

 漣さん、本当にもう一度、ご一緒したかったです。

 

 今さらではありますが、

 

 ご冥福をお祈りします。どうぞ安らかに。