ミュージック | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 同居女子と出会った頃、「子供の頃、ピアノを習ってたんだ」と言ったら、目を丸くして驚かれた。どうも見た目の風貌から私と音楽、ましてや半ズボンの小学生の私がピアノを習っていた図が浮かびづらいらしい。

 

 だが真実である(こんな事でウソを言っても仕方がない)。

 小学校の一年生から四年生まで丸四年間、ピアノの稽古に通った。

 しかも驚いた事に、当時の男の子にしては珍しく、自分から「どうしてもやりたい」と親にねだってやった。さらに驚いた事に、父は安い給料にもかかわらず自宅にスタンド型のピアノまで月賦で買い、私は毎日家で練習したものだ。

 この頃(60年代の終わりから70年代初め)に、私の周囲の男の子でピアノの稽古に通っている子など皆無で、皆から「男のくせに女みたいだ」とからかわれたが、別に本人は気にもせず、せっせと練習し、週に一回の稽古に通った。ただ、四年生の終わり頃、人より指が短いという事に気づき(これでは同居女子の腕が短い問題で笑う資格はないのだが)、それ以上高度な曲が弾けないと判明し、やむを得ずやめてしまった。

 ただ、私の通っていた小学校には鼓笛隊なるものもあって、「ピアノが無理でもトランペットなら」と考え直し、今度はこっちに入ってみたりした。

 ところが、あれは音楽さえ演奏していればよいというものではなく、言わばマーチング・バンドだから、演奏しながら並んでいるフォーメーションを変えたりという「演技」が要求される。よくアメフトのハーフタイムなんかにやっているあれの、子供版である。私はあれが大の苦手で、一人だけ列からはみ出してしまったり、回転する方向を間違えたり散々な目に遭い、トランペットは吹けるようになったがこれもやめてしまった。

 にも関わらず、中学校では吹奏楽部に入り、三年間様々な金管楽器を吹いた。高音はトランペットから一番低音のチューバまで、ほぼ全てやった。

 当時は頭が映画でいっぱいで気づかなかったのだが、どうも幼い頃から音楽好きらしい。そう言えば、父もよくステレオやラジオで音楽を聴いていた。遺伝かもしれない。

 たとえば父は、あれは一体いつどこでマスターしたものなのか知らないのだが、素人とはいえ案外なハーモニカの名手で、音階にもこだわって大小いくつものハーモニカを専用ケースに入れて大切にしていた。日曜の午後など一人家の縁側に座って吹いていたりした。

 今の私は休日に楽器の演奏などしないが、遺伝子的にはこの血が引き継がれている気がしてならない。

 

 音楽はジャンルを問わず何でも好きである。

 一番よく聞く順に、クラシック、ジャズ、ロック、ポップス、その他となる。四十代半ばまでは順番の一位と二位が逆でジャズは本当によく聴いたし、ライブにもしばしば足を運んだりしたが、最近はジャズは「ちょっとめんどくさいな」と思う時があり(あれは真剣に聴くとエネルギーを消耗するんである)、あまり聴かなくなった。

 ジャズではハービー・ハンコック、クラシックの指揮者ではいまだにカラヤンのファンである。 この二人、私は前々から言っているのだが、ちょっと似ている感じがしていて、彼らの演奏はエロチックというか、控え目に言っても「セクシー」。ハンコックのピアノは美女の目線がしなっているような感覚があり(抽象的だが、私にはいつもそう聞こえる)、一方のカラヤンにも、交響曲を指揮すると何となく「なまめかしい」雰囲気が漂い、そこがいつもぞわぞわっとする感じなのである。

 あれはおそらく二人の天性のもので、人から教わってどうにかなる部分ではない。「ライブ」を「生」と訳すなら正に彼らの演奏はこれに当たり(ちなみにハンコックのライブには何度か行ったが、さすがにカラヤンのそれには行った事はない)、音楽が生き物のような、動物的なうねりを持つような感じがある。

 ハンコックの60年代の名アルバム「処女航海」は、ジャズなのに鼻歌で歌えてしまうほど、何度も繰り返し聴いた。

 

 ロック、ポップス、その他については、もっぱら仕事の時、つまり原稿を書く時に聴く。

 これはもう純粋に原稿書きのリズムをよくするためで、ヘッドフォンをして音楽を大音量で聴きながら書くと、うまくそのリズムに乗れて軽快に原稿が進むんである。

 もしかすと子供の頃ピアノをやっていた事や音楽好きと関係しているのかもしれず、私は原稿を書いていて最も調子のいい時には、いつもPCのキーボードを文章を書くというよりはピアノを弾く感じで叩いている。そういう状態に持ち込めたら理想的で、だいたい面白い作品が書けるのである。どうも指先がぎくしゃくしていたり、つっかえつっかえの時は、仕上がりも今ひとつというケースが多い。リズムに乗れないと上手く書けないタチらしいのだ。

 幸いにして、PCのキーボードはピアノの鍵盤ほど大きく広くはなく、ちんまりとしているから、指の短い私でもOKという事らしい。

 さらにこの場合。

 脚本の内容に合わせて、どのアルバムをチョイスするかも重要になってくる。

 コメディを書く時にカラヤンのクラシックでは、やはり内容が変に重くなってしまって書けない。こういう時は、以前にデンマークに取材に行った時に買った、名もない北欧のガールズバンドを聴いたりする。元気で軽快な感じが欲しいからだ。アクションの時にはロック(古くて恐縮だがディープ・パープルのベスト盤とか)が合うし、これまたノリというか気分の問題である。

 それと、数年前からPCにアルバムを取り込んだものを愛用している。

 私はいまだにダウンロードの音楽が苦手で、これは仕事とは別の話なのだが、どうもあの「ただの空気がお手元にやってくる感」になじめず、音楽アルバムを購入する時はCDジャケットで買わないと気が済まない。なので、出不精なのにこれだけはわざわざ店に行き、時々「仕事の時に聴く用」を何枚か仕入れてくる。だからやむを得ずPCに取り込む羽目になるのだ。

 さらに、脚本を書いている最中に、「次はどのアルバムにしようかな」などと選び直していると集中力をそがれてしまうので、書き始める時に選んだアルバムは書き終わるまでほとんど変えない。だからこそチョイスが重要で、この選択を微妙に誤ると脚本の内容に大きく影響が出てしまう。

 一度など、テレビアニメで結構な恋愛ネタの回の脚本を、カーペンターズのベストを聴きながら書いていったら(これまたチョイスが古くて恐縮だが)、会議で「十川さん、これ、骨子は悪くないけど全体に甘ったるすぎます」と言われ、大幅に書き直したりした。こういう失敗は一度や二度ではない。当然、書き直す際には音楽もチョイスし直す訳である。

 

 今年の夏に「シン・ゴジラ」にドハマりし、出不精の私にしては珍しく四回も見に行った(私は、現在までのあの映画の興行収入77億円にだいぶ貢献していると思う。笑)。そして音楽も素晴らしかったのでサントラCDを買った。

 ブログ記事を書く時などはよく聴いているのだが、買った当初はアニメ脚本を書く際にも聴いたりした。

 ところがこれがうまくいかず、「シン・ゴジラ」とは似ても似つかぬ内容の脚本なのにどんどん独特の曲の数々に引きずられていってしまい、やけに大袈裟になったりキャラの台詞が長谷川博巳みたいになってしまったりで、やめてしまった。

 他のライターの皆さんはどうかわからないのだが、私は執筆と音楽があまりに密接になってしまっている為に、こういう妙な現状が起きるらしい。音楽によって煽られ(何と言うか、頭ではなく体、生理的に煽られる感じ)、その勢いに乗って書く面がたぶんにあり、そのせいで上手くいく時はよいものの、失敗すると予定していた内容から外れてしまうケースがあるのだ。ただこれは、もう三十年近くやってきているやり方だから今さら変える訳にもいかず、歳も歳だしもう最後までこれでいくしかないと思っている。

 

 日頃仕事をしながら聴くアルバムに飽きてくると、上で書いたようにたまに買い出しに行く。その時には目当てのアルバムがあるではなく、大きな店に行って次々にヘッドフォンをし、ロックやポップスの新譜を片っ端から試聴しまくって決める。新譜によいのがないと店じゅうの棚を隅から隅までつらつらと眺め、「これ」という物を何枚も買ってくる。あの時はいつも結構ドキドキするもので、ちょっと大袈裟に言えば、この先書く脚本の成否がかかっているようなものだから、嫌でも真剣に選ばざるを得ないのである。「うーん、このアルバムは買ってはきたけど仕事には合わないな」という場合もあり、無駄な散財になると軽くへこんだりするものだ。

 それほど、私の中で「物を書く」という事と「そのサポートとしての音楽」はがっつり影響し合っているらしい。

 

 一年ほど前にこのまとめ買いをしたのだが、そろそろ飽きてきた。また、私にとっての新譜を買いに行く時期が近づいてきている。

 今度はどんなアルバムが私の仕事場にやって来るのか、それは店に行ってみなければわからない。

 

 が、いずれにせよ、今度も必ずいいアルバムをゲットしなければならないのである。

 

 なにせ、脚本の成否がかかっているのだから。

 

 案外な「音楽人間」、でもある。