背信 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 乾いた銃声が荒野に反響した。

 その残響が、昭和三(1928)年六月四日の、奉天から百キロほど離れた荒れ地に横長に響き渡った。

 地平線が見える。

 その手前に、大地の水平に逆らうように、蟻のようにしか見えない、小さな目標がいた。

 だが、耳障りな残響を振り払うように、女はもう一度軍用のモーゼル銃を、思い切り伸ばした片手で構えた。

「倒れなさい」

 薄く美しい唇がそう呟いて、もう一度銃声が轟いた。

 だが、蟻のような標的は倒れなかった。

「あの裏切り者は、しぶとい」

 呟いた女は、三発目で何とかして「蟻」を仕留めるために、何もない満州の荒野を駆け出した。

 

 女に「蟻」と呼ばれたその男は、三十そこそこの日本人だった。

 任務のために常に薄茶のスーツを着ていたが、彼はれっきとした帝国陸軍の軍人だった。軍服を着ないのは「特務」のせいで、着ればたちどころにその素性が明らかになり、その場で国民党の中国人になぶり殺しに合う仕事をしていたからだ。

 軍の命令とはいえ、正に「蟻」という暗号名を持つその男は、大陸であまりに人を殺しすぎた。そして今、遙か後方から荒野を追ってくる、あの中国人の女からは、もう逃げられない事もわかっていた。彼女はおそらく自分より三、四歳は若く、脚も自分より速い。いずれは確実な射程距離まで詰めてくる。

 今の二発が何故自分に当たらなかったのか、軍用モーゼル特有の残響を後ろに聞きながら、それでも男は走り続けた。

 目の前にあるのはただ真横の地平線だけで、それは視界の両端でわずかに湾曲していた。

「大陸め」

 そう呟きながら、男は走り続けた。

 俺の脚がダメになるか、女の弾倉が空になるか。どちらが先かは天が決める事だ。三発目が自分に命中するかどうかも、だ。

 あの女は、当てるとすれば俺のどこを狙う?まず脚を撃ってこの薄汚れた荒野に横倒しにし、後からゆっくりと近づいてきて頭を狙うのか。それとも自らの射撃の腕を実証するために、敢えて最初から頭狙いで来るのか。

 男は女の別名を思い出した。

 中国の、彼女の敵対勢力である国民党の連中が、彼女に付けたあだ名だ。

「静なる蠍(サソリ)」

 撃て。遠慮はするな。俺を撃て。

 そう思いながら、岩一つない荒野を、スーツの男は駆けに駆けた。

 

「止まりなさい」

 「蟻」に「静なる蠍」というあだ名を思い出された中国人の女は、母国語でそう叫んだ。

 彼女は上海仕込みの日本語も堪能だったが、今はその豊かな胸が激しく上下するほど気持ちが高ぶり、外国語を話すゆとりを失っていた。

 中国語でそう叫んだその声は、走ってきた息切れに波打っていた。

 言って止まるはずはないと思っていたら、女は荒野の中心で虚を突かれた。

 遙か彼方に見える点のような「蟻」が、本当に止まったのだ。

 女は軍用モーゼルをだらりと腰に降ろした。

 何故止まる?お前はここで死んでもいいというのか?二重間諜として様々な勢力を裏切り、このあたしを裏切り、今朝張作霖の乗っていた列車を爆破したお前は、もうここで諦めるというのか?それでは、裏切られたあたしの立場はどうなる?そんな簡単に諦めるほど、「蟻」よ、お前は愚鈍な日本人だったというのか?

 あたしが、敵たる国民党をして「静なる蠍」と言わしめたこのあたしが、張作霖に抱かれた事さえあるこのあたしが、なのに、心が破裂するほど愛したお前が、こんなに容易く全てを諦めるというのか。

 そんな事は、あたしの誇りが許さない。

 

 男は地平線を背負う格好で、遙か彼方の女を見つめていた。

 突然、けたたましい、大勢の人々が行き交う騒音が聞こえた気がした。あれは、上海のあの駅舎の雑踏か?いや、こんな荒野で何も聞こえるはずがない。さっきの二発の銃声の、その残響のせいなのか。それとも、今朝の爆破の余韻なのか。

 もしかしたら耳がいかれたのかもしれない。いや、「とまりなさい」という女の声は聞き取れたのだから、まだ耳は生きている。

 男は、点にしか見えない女を見つめ、スーツの腰からコルト・ガバメントを取り出した。上海租界の闇で手に入れ、何人もの頭を吹き飛ばしてきた軍用銃だ。帝国陸軍のナンブ式など比べ物にならない殺傷能力を持つアメリカ製の、しかし「帝国陸軍の殺し屋」にふさわしい銃だった。

 男は点のように小さく見える女に向かって、大声で言った。

 微かに東北訛りのある日本語だった。その女を愛するようになってから、この広い大陸で唯一、彼女にだけ聞かせる母国語だった。

「止まったぞ。俺はここにいる。もう、動かない。さあ、どうする」

 猛烈な、大陸の砂塵が舞い始め、二百メートルは離れた二人の男女を、風の轟音が包み込んだ。

 

 砂塵の轟音の中でも、男女の声だけはよく聞こえた。

 一時期、互いの心を握り潰すほどの渦にまみれた男と女だから、かもしれなかった。

 時折、互いの姿が黄色く分厚い砂塵の中に見え隠れする。その事で、双方がモーゼルとガバメントを一直線に向け合っているのがわかる。

 男の声がした。

「俺が裏切ると、一度でも考えた事はなかったのか」

 女の中国語の声がした。動悸がしているのがよくわかる。

「あったわ。何度も何度も。でも、それが好きだったのよ。背筋が凍る、あの感じが」

 男はあくまで微かな東北訛りを貫く事にした。女もまた、上海訛りの日本語を話す気はないようだ。

「嘘だな」

「どうしてそうわかるの?」

「お前の背筋は決して凍らない」

「静なる蠍のこのあたしが?」

「そう呼ばれてその気になる。お前の血管が熱い証拠だ。見た目が蠍なだけさ。だが、その見た目を維持しているのは、間諜としては極めて優秀なその証だが」

 女が鼻で笑う声がした。

「蟻と蠍、生き残るのはどっちかしら」

「蟻だ。蟻は蠍に群れて食い殺す」

「今のあなたは、たった一人の蟻よ」

 砂塵がますます激しくなり、辺りがどんより暗くなってきた。

 それでも男女は言葉を紡いだ。

 どちらが倒れるにせよ、これがこの世で最後の、二人の会話だからだ。二人はそれを慈しみ、楽しみ、かつての上海租界の夜の、あの喧噪と二人の部屋の匂いまでも思い出していた。

「本当に愛していたのか」

「本当よ。どうして嘘だと思うの?」

「この世に、蠍を信用する蟻はいない」

「いるわよ。そこに。その土煙の中に。この世でただ一人、蠍を信用する蟻が」

「礼を言う。ありがとうな」

「でも、その蟻は背信にまみれてた。背信。たとえ蠍がその心故に蟻を許しても、天は蟻の背信を許しはしないわ。人として、ね。決して許されないのよ」

「俺は『蟻』だ。人じゃない」

「だったらあたしも『蠍』よ。人じゃない」

「ああ。お前は人じゃない。だが、『女』だ」

「あなたは『男』よ。でも『背信の蟻』だわ。天の声に聞いてみるといい」

 と、砂塵の遙か上方から、まさに重苦しい天の声が聞こえた気がした。

「次の停車場は」

 男と女は、砂塵の砂が口に入るのも構わず、思わず笑い出した。

「天が車掌みたいに言ってるわ。『次の停車場は』って。あなた、呼ばれてるわよ。天の神に。あなたの次の停車場は、もうこの世にはない」

「かもな。それもいいじゃないか。まだ引き金を引かないのか」

「楽しいの。だから、まだ」

 その時、二人の耳にあの音が轟いた。上海の駅舎のあの喧噪。

 男の胸にも、女の胸にも、言いようのない、甘い記憶が満ちてきた。

「駅舎前のカフェ、覚えてる?」

「ああ。珈琲が美味かった」

「あそこに忘れ物をしてきたの」

「またハンカチーフか。それだけ優秀な間諜が、どうしていつも。しかも必ずハンカチーフを」

「違うわ。忘れてきたのはハンカチーフじゃない」

「じゃあ、何だ」

 駅舎の喧噪が去って行き、また砂塵の轟音が轟いた。

「それをあたしに言わせるの?」

「どうせ最後だ。お前の口から聞かせてくれ」

 女の声が凍りついた。

「想い、よ」

「想い」

 男がオウム返しにそう言うと、女の弱々しく、しかし美しく、儚い花弁のような中国語が聞こえた。

 男には意外な、女のその答えが続いた。

「この国への想い。あたしはもうこの国では生きられない。生きるつもりもない」

「どうしてだ」

「張作霖が死んだ。もう、この国とあなたの国は引き返せない。今朝、二つの国が臨界点を越えたのよ」

「戦争か」

「それも全面戦争になるわ。これから何年も何年も、この国は血で血を洗う赤い大地と化す。あたしはそんな祖国を見たくない」

「逃げるのか。蠍にしては弱気だな」

 言いながら、男には女の真意が汲み取れた。この蠍は、蟻とともに逃げようとしている。生きようとしている。これまでにこしらえてきた数々の敵にどんな執拗に追われようとも、祖国を捨て、地の果てまでも蟻とともに駆けようとしている。

 男は言った。

「だから引き金を引かないのか」

「どうとでも」

 悲しげな女の声がした。

 沈んだ男の声もした。

「俺は、撃たない。だが、逃げもしない。行くなら蠍一人で行け」

 女の動悸は収まっていた。

 男の最後のそれを聞き、覚悟が決まったようだった。

「わかったわ」

「じゃあ」

「ええ。でも」

「でも、何だ」

「ハイシン」

「え?……」

 突然の中国語に不意を突かれた男は、思わず聞き返した。

「ハイシン?」

「そう。ハイシン」

 それは、「まだいけるわ」という意味の中国語で、蠍は蟻を誘っていた。覚悟を決めた上で、それでも二人で地平線を目指そうと誘っていた。

「『ハイシン』、か」

「ええ。『ハイシン』」

「かもな」

「覚悟はいい?」

「ああ」

 今はまだ黄色く、しかしやがて赤く染まるであろうその大地に、猛烈な砂塵を蹴散らすような、大きな二発の銃声が轟いた。

 すぐ後に、まるで天の審判が下ったかのように、砂塵と大地が、真っ黒な闇に包まれていった。

 

「終わったよ」

「どうだった?」

「うーん。なんか、最後がもやっとした」

 そう言った若い女は、あの男と女を包んだ黒い闇から視線を上げ、耳からスマホのイヤホンを外した。

 もうすぐ秋葉原に着く、朝の満員のつくばエクスプレスの中で、女はため息交じりに笑った。 同じ会社に勤め、みんなに内緒で付き合っている同僚の若い彼氏が言った。

「ああ。あるある、最後もやっとして終わる映画」

「男と女と、どっちが死んだかわかんないの。あー、なんか気持ち悪いんですけど……それにさ」

 女はさらに自嘲気味に笑って言った。

「映画、スマホで見るのってダメだ。特に電車はダメ」

 彼氏が「何で」と聞くと、若い女はさらに笑った。

「これ、すんごい広い荒野で、最後恋人通しのスパイが対決すんの。これがちっちゃいんだ。二人とも遠ーくに離れて立ってて、蟻みたいで何だかよく見えないの」

「『電車』って、何さ」

「音がね。変にいろんな音と混ざっちゃう。『次の停車駅は』とか、途中でドア空いて、ホームのざわざわした音とか。トンネル入った時の『ごーっ』とか。砂塵だかトンネルだかよくわかんなくなってきてさ」

「ふーん」

「だめだ。やっぱ映画は家で見よう。今日帰ったら、家のノートで、も一回見る」

「ふーん。やっぱ配信ってきついか」

「ううん。配信じゃなくてスマホのサイズがきついんだと思う」

「そっか。で、その映画、なんてタイトルなの?」

「あ、これ?」

 若い女はもっと笑って答えた。

「『背信』」