「考える」と「感じる」は何が違うのだろう。
基づくものが異なるようである。「考える」は知識や経験に基づくようだ。一方、「感じる」は勘や情緒に基づくようだ。
両者ともに頭を働かせていることになるだろう。しかし、「勘」とは、「情緒」とは基になっている部分には経験が存在しているのではなかろうか、「感じる」と「考える」の本質は同じなのではないだろうか。しかし、人は「考える」と言う言葉と「感じる」という言葉に線を引いている。
「感じる」のは勘や情緒が存在しなれば起こせない。
勘や情緒を形成するのは経験であるとするならば、考えるとは勘や情緒というものを形成する行為も含むのではなかろうか。
つまり、考える→勘、情緒の形成→感じると言う一連の流れが存在しているのではないか。無論、全てこの一連の流れになっているわけではないだろう。考えることによって、ある一つの答えで完結する場合もあると思う。しかし、答えがパターン化して、分類され、蓄積すると、ある答えにたどり着くまでに本来であれば階段のように一段一段「考える」を繰り返さなければならないのに、「感じる」と言う行為は階段の一段目を見た瞬間に答えが見えることなのではないだろうか。
しかし、「感じる」と言う行為は階段にワームホールを出現させて答えにたどり着いているようなもので、おおよそ客観的に皆が分かる事実となり得ない。そのため、客観性が重視される科学の世界では「考える」と言う言葉が使用されるのではないだろうか。
この文章は「考えている」のだろうか「感じている」のだろうか。