お弔い。 | 適当な事も言ってみた。

適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

中学校の時の数学の先生が亡くなった。
数年前から鬱病に罹っていたらしく、定年前に職を辞していたと聞いた。

思わず呻いた。
教員の病気退職の多くが、精神疾患に因るものだという事を聞いていたからだ。

次から次へと流れ行く、生徒たちの人生。
彼らは永遠に十代のままだが、自らは年を取り続けてゆく。
通過点であることを知りながらも、お互いに理解しようと試みるためには、
それなりの代価が必要なのだ。

代価を賄うにはまたそれなりの代価を求めなければならない。
自転車操業のように、教師たちは精神を擦り減らす。
無力感や喪失感を伴いながら、自分たちの存在意義を確かめながら、
集合と離散を乗り越えてゆく。

そのうち、そういったものに神経を使うことを止めることを覚える。
離人感に近い感覚が教師たちを蝕む。
その上中等教育の根本的欠陥の解決や、システム刷新による無理難題が、
最前線の教師たちに課せられる。
親からのクレームや要求も苛烈さを増す。

生徒たちに罪はない。ただし、彼らは犠牲者でもない。
いつもそうだ。泥沼と化した状況に「解り易い悪者」は居ない。
だがそんな時に限って悪者を捜したくなるものなのだ。

かくして教師はやり玉に上がる。
微にいり細にいり、一挙手一投足があげつらわれ、
いよいよ教師たちは追いつめられ、やがて職を辞すまでに追いつめられる。
「おれは間違っていない」と言い切るか、「私は間違っていたのだ」と思いこむか。
そのどちらかに追い込まれてしまうのかもしれない。
しかしおそらく、そのどちらの果てにも、救済は訪れない。

教育に生き甲斐を見出すのはきわめて危険であり、かつ難儀である。
菩薩のような人間であればこそ到達できよう境地もあるかもしれないが、
どだいそんな人間は稀である。

どんな人間であれ、およそ人生の大義とは「生きのびる」ことだと思う。
何を自らに課そうが、何を求めようが、生きのびてこそ成り立つものだ。
大義に殉ずることに美学をみいだせるのは、若さ故の迷妄に過ぎない。
老境に差し掛かったかの人の胸中は、察するにあまりある。

寄る年波に精神を擦り減らし、病のうちに逝去されたかどうかは定かではないが
ただ今は亡き数学教師の追善菩提を祈らずにはいられない。