生きづらさの居場所には、様々な凸凹のせいで社会生活に支障をきたしている人が多く見られます。




他人との繋がりで着いた傷は、他人との繋がりで癒されるのが1番ですが、不安や警戒心が邪魔をして心を開くことがなかなかできません。




どうしても相性があるので、互いの生きづらさを受け入れようと努力はしても、合わない人もいますし、お互いを理解するには時間も掛かります。




極たまに自覚なく場を荒らしてしまう人もいて、世話人や支援する人達の目配り気配りがあっての居場所なのだと分かってきました。




生まれ持った個性が強いことで、周りに理解されない不安や怖さを経験すると、警戒心や緊張感を外すのに時間がかかります。



もっと楽に人と繋がれる様になりたくて、他人との繋がり方を学ぶためにも居場所に集います。




私は、場の雰囲気に慣れるのに半年、自分から話ができる様になるのに更に半年、緊張せずに交流できる様になるのに更に半年掛かりました。




交流の中で様々な生きづらさと出会い、自分自身とも向き合える様になり有り難さ満載です。




他人との繋がりの中では、どうしても自分と他人を比べてしまうこともあり、様々なトラウマが噴き出すこともありました。そこで逃げてしまうか、向き合えるかが、大きな分かれ道なのかもしれません。



私は年の功もあり、その度に感情と向き合い、その感情を引き起こす記憶と向き合い、記憶の中の思い込みや勘違いなどの思考と向き合い、認知の歪みを受け入れ理解し整えるという手順を、コツコツと繰り返すことが出来ました。




記憶と感情の仕組みを知り、記憶と感情を切り離すコツを覚えたコトで、過去の記憶の多くがやさしい思い出に変わりました。




自分の人生を俯瞰して見られる様になると、全ての経験が必然的に起こっていると感じるようになりました。



逃げ続ける限り苦しさは終わらないことも分かりました。




変えたい変わりたい意識を自己否定ではなく自己肯定感と捉えることが大事なのだと思いました。




否定から変化を求めると自己否定のループから抜け出せません。変われるから変わりたいのだと肯定的に捉えることで、前に進むことができました。




ほんの少しの言葉のニュアンスで、意識が大きく変わりました。言葉の持つ波動の力は絶大なのだと分かりました。



読書が苦手で、言葉の意味や解釈にも苦手意識があり、言葉遣いに育ちの違いを感じたり、言葉に対するコンプレックスがあり、今まで自分から言葉と向き合おうとしなかったのだと気が付きました。




学ぶ為には沢山の経験が必要で、向き合えなかった時間の中にも気付きがあり、無駄だったと思っていた労力も、小さな気づきの積み重ねを得るための必然だったのだと今なら分かります。




無知や無関心も、新たな気付きの為にあり、知識を得るのに早いも遅いもなく、興味関心に良し悪しもなく、ただ自分の魂が喜ぶコトを選択する意識を持とうと思いました。




自分自身を理解する作業が、面白くなりました。