生きるのがしんどくて、逃げて隠れた経験も、何度も何年もひきこもった経験も、自分だけの経験という宝物になりました。





元気ならば頑張れることも、疲れやストレスが溜まれば頑張れない。そして空回りする行動ほど疲れるものはないのだと知りました。




体力も気力も個人差が大きいコトにも気が付いて、その時々の自分なりで良いのだと少しずつ受け入れました。




無理をしなければ気力は自然と上がる様に出来ていて、



ダメ出しをする世間体があり、焦らせる周りのプレッシャーもあり、その時々の自分をどう癒せるかが、現代を生きる上での大きな課題なのもしれません。




環境で鍛えられた我慢強さは頑固さとなり、生きづらさの体験時間の多さも、今の自分の糧となりコツコツと他人との縁を繋いでいます。




何万回も繰り返した自己否定。


報われない空回りの繰り返し。


何をどうすれば良いのか分からなかった時間も、ちゃんと過ぎ去ることを知りました。




自分のコトを知らな過ぎた自分を知り。


世界のコトを知らな過ぎた自分を知り。 


人間のコトを知らな過ぎた自分を知りました。




いくら自分を変えたいと思っても、自分の特性に合わないことは無理で、理解できないコトは覚えられない。




分からないのも理解できないのも自分らしさ。

出来ないだらけのあるがままでも、それなりに生きられている。




誰かに言われた言葉のニュアンスをどう受け取るかで生き方が変わってしまう言霊の力。




人は自分らしさを認められることに喜びを感じる様にできている。


これが肯定されるという感覚なのだと腹落ちしました。





乳幼児期に周りの人達から、自分という存在を無条件で受け入れて大切に扱われることで、本態的自己肯定感が身につくと言われています。




もしそんな乳幼児期に、何かの都合で自分の主張を受け止めてもらえない経験を多く積んでしまったのだとしたら、



もしそこに命や生活を守るための大事な理由があったのだとしたら、




乳幼児期には認められていた自分が、集団の中で否定されたと感じてしまったら、




集団生活に馴染むコトに大切な理由があったとしても、理解できないコトを強要された記憶になってしまったとしたら、




つまり人は、その時々の自分で生きるしかなくて、生きづらさも価値観の違いも自分の個性であり、その中でお互いを受け入れながら、助け合いながら生きることを、何度も何度も学び直すしかないのだと思いました。




苦しさや失敗や反省ばかり教えられたら、子供らしさや個性は混乱してしまうかもしれません。




要領の悪さも不器用な生き方も、これが自分なのだと自分を受け入れた頃から、生きるコトがずっと楽になりました。




自己否定の判断は楽だけど、肯定するにはそれなりの理由が必要な気がしていました。



でも本当はその逆で、ありのままを受け入れるコトに理由など必要なくて、否定してしまう理由こそが大事であり、向き合う必要があるのだと思いました。





否定している自分は誰かと比べて劣っている自分であり、そのジャッジをしていたのも自分でした。



愛着の歪みや、ひきこもりを経験している人も、そんなに多くはないだろうと思っていたら、ひきこもりの居場所にはそんな人ばかりでした。




今、私の周りには凸凹の生きづらさを抱えながら、精神科に通いながら、何とか人との良い縁を繋ぎたいと頑張っている人たちがたくさんいます。




出たりひきこもったりを繰り返す話しを聴きながら、何度だってその勇気を応援できる自分で良かったなと思います。




小さな不安を抱えた人たちが、安心して立ち寄れる居場所が、もっとたくさん増えて欲しいなと思います。




居場所を求めて彷徨っている多くの人が、自分に合った居場所に辿り着けるコトを強く強く祈っています。