人の心の中は見えないので。

 

 

勇気を出した最初の一歩が、どれほど価値のあるものなのかを実感できるのは、ずっと先のコトなのかもしれません。

 


 

長い間、周りの反応や言動を基準に一喜一憂する癖が着いていました。



自分なりに勇気を出し努力もして頑張ったつもりが、上手く伝わらず、周りの評価や反応に落ち込んだりを繰り返した時期がありました。




ある程度まで頑張って努力しながら、最後に無意識に手放すというドタキャンの癖があり、それは回避型愛着障害と呼ばれている行動と一致していました。

 


 

自分の生き方の癖や特性を理解できず、ただ嫌われない様に、相手からダメ出しされる前に無意識に自分でダメ出しをしていました。


  


居場所で、自分とも違う様々な生きづらさを抱えている人たちとの交流の中で、自分自身の不可思議な行動が、実は特殊なコトではなかったのだと気が付き、自分が学んできた愛着障害の疑問が一気に解けていきました。




生きるという営みは、自分という肉体と魂を育み育てているのであって、子供であっても本人の本能と意志があり、大人が勝手に育てているのではなく、本人と周りの人間関係の共同作業なのだと、今更ですが腑に落ちてきました。




赤ん坊であっても、ひとりの人間としての個性があり、持って生まれた才能や気質は、変化することがあっても無くなることはなくて、様々な才能の種を無限に内包しているのだと思いました。




発芽しない種がどんな気温でどんな栄養でどんな光で発芽するのか条件が整うまで様々な経験と努力というも試行錯誤の中で気がつくと発芽しているのかもしれません。




それが好きなコトとして認識され、更に努力するコトで特技や才能と呼ばれるモノに昇華されていくのかもしれません。




どれが自分の才能なのかは、ある程度育ってから気が付いて、役立てられる形になって初めて自覚できるのかもしれません。




自分の生きづらさと向き合う中で、踏み出した先の一歩の出会いが出会いを引き寄せて、少しずつ少しずつ縁が縁を繋ぎ、気がつくと他人の輪の中に入れている自分がいました。




生きづらさと向き合うのは幸せになりたいから。もしかしたら、生きづらさこそが発芽直前の幸せの種なのかもしれない、と思いました。

 

 


誰もが自分なりの悩みや浮き沈みを抱えていて、恵まれた土壌を持たなかったとしても、それぞれに自分のペースがあり、選択の自由もある中で、勇気を振りしぼりながら前に進もうと頑張って芽を出そうとしているなだと、そんな風に感じています。



 

自分のペースでの進み方が許される有り難さを知り、人の優しさに触れられる場所に辿り着けた有り難さを知り、助けを受け取れることの喜びを知り、居場所の有り難さを知りました。

 

 

 

私は、人の優しさや、人の繋がりの大切さを学ぶために生まれてきたのかもしれない…。

 


 

自分の気質を理解し受け止めるコトで栄養とするコトができて、生きてきた環境での様々な想いを俯瞰して理解し受け止めて、それも栄養とすることができた気がしています。

 

 

 

鬱病も対人恐怖もひきこもった経験も、愛が理解できず、人との繋がり方が分からずに悲しんでいた私を、成長させるために引き寄せた試練であり、カルマを乗り越える為のキッカケであったのかもしれないと思いました。

 

 

 

未来は可能性。

なりたい自分はコロコロ変わる。



迷うから考える。

躓いたらそのまま少し休めば良い。


何度も迷い何度も躓いて。

それでも立ち上がれる強さは育っていた。


疲れたら休んで良いと知り、休める有り難さを知りました。



自分を労わることの心地良さ。



自分の魂が心地よいと思えること。



魂が喜ぶコトをコツコツ増やしていこうと決めました。