自分を受け入れられているかどうか、自分を肯定できているかどうか、時々確認しています。
自分が少しでも心地良いと思えるモノと繋がっていたいです。
つい否定的な方からモノゴトを眺めてしまい、それはいつの間にか身に付いた思考の癖。
頑張れている時の自分は好きと思うし、それは良いことなのですが、仕方がないからやっている様に、苦でないコトも苦に見せなければと頑張っていた気がします。
誰かと一緒である事がスイッチとなり、頑張らねばならないとの思考が働き、何を頑張らなければいけないのかも分からずに、常に何かに追われている様な感覚の中にいた気がします。
自分の凸凹な特性を理解したコトで気が付いたコトが沢山あります。
何かに集中すると周りの声が聞こえなくなり、よく注意されていたコトを思い出しました。ぼ〜っとしていて注意されたり、まだ出来ないのかと急かされたり、落ち着きがないと言われたり、周りのテンポに合わせられなくて右往左往していた子供時代を思い出しました。
少し前まで発達障害という言葉だけで、それが何を示していたのか分かりませんでした。
ひきこもりと言う言葉も、どんな意味を持ち何を示していたのかも、実際に興味関心を持ち関わるまで全く分かっていませんでした。
何がどうであれ身に付いてしまった思考や行動の癖が生きづらさに繋がっているのならば、その生きづらさが何を示しているのかをちゃんと知る必要があるのだと思いました。
自分の個性をマイナスと捉えていると、自分という存在そのものがマイナスに傾いた認識となり、自己肯定感がとても育ち難いのだと思いました。
自分自身という存在をどう捉えているのかは、養育環境の中で周りの人達から受け取った言葉による刷り込みが、やはり大きいのだと思います。
言葉の持つエネルギー…、言霊。
言葉には無意識の思念が含まれていて、感受性の強い子供時代は言葉の意味を理解する前に、思念からの思いを受け取ってしまいます。
もしかしたら言葉も無かったのかもしれません。
ただ感じ取れてしまう自分に向けられる様々な感情が、私の生きる土台には蓄積されていました。
人の顔色を伺っていたのではなく思念を読み取っていたのかもしれないと思いました。
ラクナ梗塞を繰り返し認知症の様な状態になっていた時、職員の言葉をとても怖く感じました。みんな疲れてピリピリしていて、自分が攻撃されていた様な気がして、私はこんなにもみんなに嫌われていたのかと感じてしまい、鬱状態も悪化し、他人が怖くなり、仕事にも行けなくなり、ひきこもりました。
今、その頃を振り返ってみた時に、心のエネルギーが枯渇して、バリア機能が壊れて剥き出しの状態に、自己否定もあり個々の波動や思念をモロに受けてしまったのだと思いました。
何となくおかしいと気が付いていても、何がおかしいのか分からないまま、ある日突然、すり減った何処かが何かが、痛んだり動けなくなったり…、私の場合はそれが脳に起きていたのだと思いました。
何となくの予測はしていたのに理解は出来ず、不安に駆られた混乱やパニックの中、いつもとは違う自分に更に不安を強くしていた気がします。
頭は休むコトを許されていないので可哀想です。
何とかしなければと必死になればなるほどグチャグチャになって、身体が強制休養を下した状態が鬱病…なのかなと。
心のストライキがひきこもりと呼ばれるコトがあります。
ただのサボリと言われることもあります。
混乱やパニックはヒステリーと呼ばれるコトがあります。
精神疾患と言われることもあります。
病気だから仕方が無いとか、触らぬ神に祟り無しとか…
みんな同じだとか、一時的なモノだから心配ないという人もいます。
ストレスを溜めないように発散しましょう…と言われても、自力で発散できるのは、ある程度元気な人です。
苦しい時には、誰かの何かの力や助けが必要なのだと思いました。症状の有無に関わらず、気持ちが病んでいれば、その全てが病気の元になる。
そして生きていれば、多かれ少なかれ、いつか苦しい時が訪れるのだと思います。
自力で上手く発散できない時に助けをもとめられるかどうか、苦しんでいる時に助けを求められるモノを持てているかどうかが、とても大事なのだと思いました。
その為には、お互い様の優しさを知るコトがとても大切なのだと思いました。
助け合うコトが、どういうことなのかを60過ぎて居場所で学んだのだと思いました。
生きるのが少しずつ楽になり、これからの自分の生き方を模索しています。