笑顔と共に生きていきたい。


きっと誰もが願うこと。




どんなに頑張っていても気を配っていたとしても、どこかで誰かを傷付けてしまうことはあって、



どんなに優しくありたくても、優しくできない時もあります。



それは親子や家族でも他人でも同じで、他人なら離れられるけど、家族には一蓮托生の守りだけでなく、一連托生の無理強いも加わってしまうから、難しいなと思います。




自立した大人として育つまでには、様々な経験と学びが必要ですが、自分の意志が弱いと、強い他人に振り回されてしまいます。


逆に我が強すぎても他人との関係は難しいので、やはり経験と学びなのだと思いました。



1人では生きられないコトを幼い頃から知ってしまうと、生きる術を身に付けるための経験と学びを先に身に付けるコトになり、その時期に身に付けるべき何かが育たなかった可能性があります。




自分を大切にするコトの意味も、日々を生きるだけで精一杯な状況では、よく分からないのかもしれないと思いました。




時代がどんどん変わっていく中で、家族の在り方やモノゴトの良し悪しも、社会の常識すらもどんどん変化してきました。




100万人を超えるひきこもり人口が表面化したということは、現実にはその何倍も何十倍もの人が苦しんでいるのだと思えます。



それはつまり、今はなんとか動けている人も、いつ動けなくなっても不思議ではない状況かもしれないということであり、とても怖いことだなと思いました。




心療内科がどんどん増えているのに、投薬治療を受けて良くなったという話をほとんど聞がない現実。




ようやく動き出した、ひきこもり問題の1番のネックは社会全体の偏見や理解の乏しさなのだと思えています。



親が死んでも子供が生きられない時代ではないのだから、経済的な支援と繋がることができれば良いのではと、以前はそんな風に思っていました。




でも自分自身が動けなくなり、ひきこもった状態から抜け出せない蟻地獄の様な怖さを経験して、想像していたより何十倍も何百倍も苦しくて複雑で、人間としての尊厳に関わる問題でもあるのだと気が付き、息子に対する意識も変わりました。



なぜそこから抜け出せないのか分からないまま、足元がどんどん崩れて沈んでいく怖さ。


もし助けを求めた時に、助け舟があったなら、捕まれるロープがあったなら、どんなに嬉しかっただろうかと。



人を求めながら人が怖くて小さな空間に身を潜めて葛藤していた3年間、この平和な日本でなぜ自分はこんな事になっているのかと、誰かを何かをそして自分を1番責めていました。




『尊厳とは、個人の存在や価値を尊重し、人間らしさを保ちつつ、自分らしい生き方をできるようにすること』とありました。とても難しいことだなと思いました。





憲法12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 ②憲法13条 すべて国民は、個人として尊重される




もし自分が誰かの助け舟になれたなら、もし気が付いてロープを投げ入れてあげられるのならばと、今はそんなコトを思っています。