私は5歳の時にひとつ年下の従弟と友達を連れて大冒険をした事があります。



バスと電車を乗り継いだ家出のような、宝探しのような…。

 

 

周りの大人に混じって、バスに乗って終点の駅まで行き、電車に乗って隣の駅で降り、目的地に向かって、何の迷いもなく歩いて行った記憶があります。



途中で年下の従弟がお腹が空いたと泣きだし、路地売りのおばちゃんに甘い煮豆をもらって食べました。



どこかの神社に続いているような道を歩いて登っていて、途中でおまわりさんに保護されました。

 

 

その目的地が何処だったのかは覚えていません。



ただ警察署でおやつをもらって食べながら、お巡りさんが『もう直ぐお母さん達が迎えに来てくれるからね』の声に大喜びして、飛び跳ねていたことを覚えています。



とてもワクワクしてとても楽しくて、私が鮮明に覚えている心から楽しかった唯一の記憶です。

 


 

迎えに来たのは母ではなく祖母でした。



その姿を見た瞬間で記憶は止まり、その後の記憶は全く無いのですが、それが私の1番楽しかった記憶であり最後の冒険だった気がします。

 


その時に、何らかの強い制約や禁止令が発令されたであろうことは想像ができます。

 

 

幼い頃の私はよく柱に紐で繋がれていたと親族から聞かされてもいました。

 


私を育ててくれた祖母とても怖くて、母を泣かす、私にとって鬼のような存在でした。

 

 

自分のADHD気質を知った今になって思うのは、

 

 

もし保護されていなかったら、4歳と5歳の三人の子供はどうなっていただろうかということ…。



子供の短絡思考とADHDの特性が引き起こした、大事件になっていたかもしれません。

 



自分の生きづらさばかり考えていましたが、そんな子供の面倒を見ていた祖母は、大変だっただろうなと思います。

 


祖母を怖い存在に変えたのは私自身であり、私を守ってくれたのは、祖母だったのかもしれません。

 
子供の私は何があっても母は来ないと諦めて、祖母に逆らっては生きられないと悟ったのだと思います。
 
 
生きづらさにも、それなりの理由があり、自分を生きるためにその時々で必死に生きてきた結果なのだと今なら分かります。
 
 

誰が悪いわけでも、誰のせいでもなく、今生きられているその事実以上に確かなことはないのだと今なら思えます。
 
 
 
機能不全の家庭環境だけでなく、遺伝的気質、発達の凸凹、親子の相性なども生きづらさには、大きく影響していて、それらを含めた全ての経験の積み重ねで生きて来れた今の自分であること。



生きづらさにもマイナス面だけでなく、必ず何かしらのプラス面も存在している。



つらい最中では難しいけど、生きづらさも不器用さも、それが自分の一部と受け止められた時、それは愛しい自分の一部になるのかもしれません。