☆罪を犯した者は、数々のカルパ、その長きに亘って蕾の儘の華々に幽閉される。
教行信証の読み下し分と訳文――その298☆しかし、アヴィーチという地獄の中で、多くの責め苦に苛まれるよりは上等だと知るべきだ。○読み下し分 『顕浄土真実教文類二』その283(聖教電子化研究会より引用)276頁7行目の初めから277頁2行目の終わりまで (法事讃)また云わく、永く譏嫌を絶ち、等しくして憂悩なし。人天、善悪、みな往くことを得。彼に到りて殊ることなし、斉同不退なり。何の意か然るとならば、いまし弥陀の因地にして、世饒王仏の所にして、位を捨てて家を出ず、すなわち悲智の心を起こして、広く四十八願を弘めしめたまいしに由ってなり。仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く、と。抄出○訳文(鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳親鸞『教行信証』・東本願寺出版より引用) その274203頁上から9行目から204上から1行目まで しかしながら、光明寺の師匠は自らの説明不足を補うかのように別の著作にこう記している。罵るような中傷も、悪し様な暴言も、彼の国では聞かれることが無い。人々は一様に憂悩から解き放たれている。人々も神々も、善人も悪人も、すべてその地に生まれ得る。一度そこに至れば、あらゆる差異は消え失せ、すべての者が決して後戻りしない段階にいる。なぜか? アミダの大いなる慈しみの心と、すべてを見通す大いなる智恵(プラジュナー)とに依るからだ、それらはアミダがロケシュヴァラ・ラージャという覚った方の元で悟りを求める者に相応しい修行に就いていた時に呼び覚まされた。そして、彼の方は、王位を捨て、一家の団欒をも擲(なげう)ち、四十八の悲願を駆使して、全き救済という大いなる誓いを実現しようとしたのだ。だからこそ、彼の悲願の力は、五種の重罪や十種の悪行を犯した者の、その許されざる罪を清め、清浄な国土に生まれさせる。勿論、教えを罵るように中傷する者だろうと、イッチャンティカ(信頼を享有していない者)だろうと、自らを顧みて、心がアミダへと向けられるや否や、そう、清浄な国土へ生まれ行くことは漏れなく叶うのだ。〈抜粋〉辞書からロケシュヴァラ・ラージャ=世自在王佛(せじざいおうぶつ)は、法蔵菩薩(阿弥陀如来)の師仏とされる如来である。梵名は「ローケーシュヴァラ・ラージャ」。イッチャンティカ=一闡提(、イッチャンティカの音写、いちせんだい、いっせんだい、略して闡提=せんだいと呼称する)。一闡堤とも書く。信不具足、つまり仏法を信じず誹謗する者をいう。☆Comment「心がアミダへと向けられるや否や、清浄な国土へ生まれ行くことは漏れなく叶う」と言います。そこでは「人々は一様に憂悩から解き放たれている。人々も神々も、善人も悪人も、すべてその地に生まれ得る。」と言います。結構なことです。そのためにどうしたらいいのか。信の道へ入ればいいのです。入りたいは人は入っていきます。そういう人はたくさんいます。ぼくは入りません。一度入ったら際限がないからです。今日は信じて明日は疑ってというわけにはいきません。どこまでも信じとおさなければなりません。それが信仰の道です。ぼくは信じません。すると信仰の道に行かなくてすみます。そうして生きていることの苦悩と対峙します。それにどう向き合うか、という葛藤を詩や童話に書いていきます。そうすると何がいいのでしょうか。信仰をしなくてすみます。心の葛藤を表現の素材にすることができるようになります。(この項つづく)(メルマガ・2022年7月6日)http://www.mag2.com/m/0000163957.htm掲載記事の無断転載を禁じます。Copyright(C) Tonooka-Hideaki