鈴木大拙の『日本的霊性』について―第420回――殿岡秀秋筆

 

 

 

鈴木大拙著『日本的霊性』(岩波文庫 1972年版)より。引用は特に断りのないかぎり、本書からです。

 

 

☆ひじょうによろこぶこととおのれを恥じることとのまじわりが、すなわち念仏である。

 

 

「3 歓喜と慚愧」

 

『ねんぶつは慚愧(ざんき)歓喜の絶えなしの仏。

なむあみだのなせる仏。』(『大乗相応の地』二八三頁)」

 慚愧が即ち歓喜、歓喜が即ち慚愧――この絶間なき交錯が直ちに「なむあみだぶつ」である。「なむあみだぶつ」であるが故に、この才市はそのままで、慚愧と愚痴と浅ましとを意識しつつ、歓喜の仏なのである。霊性的直覚とはこの矛盾を矛盾として、しかも矛盾でないと直覚することである。」(213頁)

 

☆事典・辞書から

 

慚愧=〔「ざんぎ」とも。元来は仏教語で、「慚」は自己に対して恥じること、「愧」は外部に対してその気持ちを示すことと解釈された。「慚」「慙」は同字〕自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと。

歓喜(かんぎ)=〘仏〙 説法を聞いたり,仏の功徳を見たりして,信心を得て非常によろこぶこと。かんき。

大乗相応の地=藤秀璻(ふじ・しゅうすい)の『大乗相応の地』(興教書院、1943年)

愚痴=〘仏〙 三毒の一。物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであること。

浅まし=あきれるほどひどいようすだ。

直覚=推理などによらず,直接に感じて知ること。直観的にわかること

直観=〘哲〙 推理を用いず、直接に対象を捉えること。一般には感性的知覚をいうが、直接的に全体および本質をつかむ認識能力としてプラトンの「イデアの直観」以来、哲学上さまざまな形で高い位置が与えられてきた。「直感」は感覚的に物事を瞬時にとらえることであるが、それに対して「直観」は推論を用いず直接に対象をとらえ、瞬時にその全体や本質をとらえる哲学用語として用いる。

 

☆Comment

 

 おのれを恥じることがすなわちひじょうによろこぶことである。ひじょうによろこぶことがすなわちおのれを恥じることである。このまじわりがすなわち念仏である。才市はそのままでおろかでひどいようすを意識しながら非常によろこぶ仏なのである。

「霊性的直覚とはこの矛盾を矛盾として、しかも矛盾でないと直覚することである」と大拙はいいます。これは論理で理解しようとしても難しいとおもいます。

 つまり理屈ではない。意味ではない、理解ではないのです。ではなにかというと、感性的につかまえること。直接に瞬時にとらえることとあります。

 どうしたらいいかというと、感覚的にイメージする方法が有効かもしれないと最近おもうようになりました。

恥じることがすなわちひじょうによろこぶことである。ひじょうによろこぶことがすなわちおのれを恥じることである。このまじわりを自分なりにイメージしてみるのです。

体がゾクッとしませんか。

 

(この項つづく)

 

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(この項つづく)

 

 

源氏物語の登場人物の性格》その249

 

 

 

(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)

 

☆『源氏物語』の性格描写

 

○源氏が須磨行きの前に典侍(朧月夜)に贈った歌

 

「逢瀬なき涙の川に沈みしや

 

流るるみをの初めなりけん」(須磨・218頁)

 

☆辞書・事典から

 

逢瀬=会う機会。特に、恋愛関係にある男女が人目をしのんで会うこと。

けむ=過去の推量。…だっただろう。

 

訳=恋しい貴方に逢えないで涙の川に沈んでいたことが、こうして流れる身となった始まりだったのでしょうか。

 

☆Comment

 

 実際には朧月夜に逢っていたのに、歌では逢えないで涙したことが原因で流浪の身となりましたと、源氏の歌は作られています。

 

 

(この項つづく)

 

 

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