教行信証の読み下し分と訳文――その77

 

 

 

☆アミダの名の価値とは罪を清めて幸を生むことにある

 

○読み下し分 『顕浄土真実教文類二』その64

 (聖教電子化研究会より引用)

 

83(大経義疏)法相の祖師、法位の云わく、諸仏はみな、徳を名に施す、名を称するは、すなわち徳を称するなり。徳、よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑いなし。称名往生、これ何の惑いかあらんや、と。已上

 

○『教行信証講義』 山邊習學 赤沼智善 共著発行所 無我山房 平楽寺書店 初版発行 大正3年6月25日                底本  昭和6年5月1日発行 第13版より引用

第十三科 法位法師の釈文

 

 【字解】一。法位 法師の伝は知れてない。茲の引文は『大経義疏』の文であるが、その書も伝わって居ない。

 【文科】法位法師の釈文を引用し給うのである。

 【講義】法相宗の祖師、法位法師はその著『大経義疏』の上巻に云く、一切諸仏はみなその功徳を名号に収め給う。我が弥陀もまたその通りで、六字の名号の中に、御自身の智慧も功徳も残らず施し収めて下さる。それ故にこの名号を称えるのは、即ち弥陀の功徳を称えることである。功徳の罪を滅し、福徳を生むことはいう迄もない。既に名号は功徳と同じで(1-591)あるから弥陀の名号の謂れを信ずれば、その功徳は吾等の身にみちみちて、善根を生み、罪悪を滅すことは少しも疑う余地はない。称名往生ということに就いては何の疑う所があろう。

 

 

○訳文(鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳親鸞『教行信証』・東本願寺出版より引用) その77 本文64頁

 

「法相宗(ほっそうしゅう)の長老法位(ほうい)は〔次のように〕言う。〈覚った方々〉は自らの〈名(な)〉に独自の価値を付与している。だから、〈名(な)〉を称えることはその価値を称えるに等しい。価値とは罪を清めて幸を生むことにある、〈名(な)〉も同じだ。〈覚った方〉の〈名(な)〉を信頼すれば、善を産み、悪は討たれる、これには疑いを挟(はさ)む余地が無い。〈名(みな)〉を称えれば〈清浄な国土〉に生まれる。心配は無用だ。」

 

☆辞書・事典から

 

法相宗(ほっそうしゅう)=中国一三宗・南都六宗の一。唐の玄奘(げんじよう)が伝えた護法・戒賢の系統の唯識説をその弟子の窺基(きき)が大成したもの。「成唯識論」などをよりどころとして一切の存在・事象を五位百法に分類し,すべての実在の根源は阿頼耶識(あらやしき)にあるとする。日本へは653年道昭により初めて伝えられ,のち,さらに三度伝来された。元興寺・興福寺を中心に奈良時代に盛んに行われた。現在の本山は興福寺と薬師寺。慈恩宗。唯識宗。

 

☆Comment

 

 なぜアミダの名を称えるのかというと、アミダの価値を称えているからです。アミダの価値とは罪を清めて幸を生むことにあります。アミダの名を信頼すれば、善を産み、悪は討たれるといいます。

 つまり〈信〉がなければなりません。ぼくにはそれがありませんから、称えることもしません。

 アミダへの〈信〉は鈴木大拙の『日本的霊性』での妙好人の記述をみると、すさまじいものがあります。そこまでいかなくては〈信〉にたどりつけないのか、と感心してしまいます。

 

 

(この項つづく)

 

 

源氏物語の登場人物の性格》その252

 

 

 

(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)

 

☆『源氏物語』の性格描写

 

○源氏の藤壺への返歌

 

「別れしに悲しきことは尽きにしを

 

またもこの世の憂さは勝れる」「(須磨・219頁)

 

☆辞書・事典から

 

訳=故桐壺院とお別れしたときに悲しいことは尽きたとおもいましたのに、またもこの世でさらに辛いことにあっております。

 

☆Comment

 

 都をはなれ、須磨にいくことは恋しい藤壺と離れるだけでなく、源氏と藤壺との子である東宮を守ることも難しくなるので、源氏は悲しいのです。源氏は藤壺のもとを出て、故桐壺院の御陵に向かいました。供も少なく、寂しい一行でした。

 

 

(この項つづく)

 

 

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