芹沢俊介の『親鸞で考える相模原殺傷事件』
その47
東京一組よにん会2017年8月10日発行の冊子(真宗大谷派 東京教区 東京一組 教化委員会編集 東京都台東区浅草1-9-3 円照寺)
☆親が子に非難と否定の対応をしていたならば、たぶんいい展開は望めない。
「私が目にした記事に、母親は息子が刺青を入れたということが分かったという時、大騒ぎして泣いて起ったというものがありました。それはそうでしょう。私たちも自分の子どもがそういう行動をとってきたら、とても冷静ではいられない。お前どういうつもりなんだ、ということになるし、俺はいったいこの子に何をしてきたんだという思いになります。でもそうやって子どもの行為を責めれば責めるほど、子どもは自己破壊行為を脱することはできないし、深間に入ってしまうのです。逆に親が『自分が間違っていた、ごめん』と手を差し伸べることでしか、植松聖は自分の体に入れた刺青の意味を解体していく道にはなかなか向かえないだろうと思うのです。というのも、刺青を入れる片棒くらいは、親は担(かつ)いでいるに違いないからです。
「馬鹿なことをやって、恥かしくないのか、親の立場を潰す気か」というがごとき非難と否定の対応をしていたならば、たぶんいい展開は望めないだろうと思う。推測すると、否定、非難の対応を親がしたというのが実際の成り行きというか展開になってしまったのではないか。
養育論という枠組みを作ってきたので、これをもとに考えていけば、わずかな情報・資料でもある程度の理解というか仮設を組み立てるのは可能なのです。いまお話ししたこともその一つにすぎません。だけれども、どんなに情報がたくさん集まって、それをもとにこうだと言ったとしても、それも同じ仮設なのです。まずしい情報素材の中で立てた仮設と、情報がたくさんあって革新的に立てた仮説、どちらが真実に近いかということは、これもまた決められないことですね。」(121~122頁)
☆Comment
親が注意しすぎるというのは、どこの家庭でも起こりがちのことです。おやは自分の言っていることが正しいとおもいこんでいます。子どもは論理では有効な反論が難しいのです。ですから物をこわすとか、親に直接暴力をふるうとか、自暴自棄の行動に到ってしまうことがあります。
悲劇は繰り返されていますが、なかなか有効な手立てがありません。それは育てている親自身が、自分の幼年期などで受けてきた躾けが原体験になっている可能性が高いからだとおもわれます。自身がどのように育ってきたかを知ろうとすることはとても大事なことです。そこで理不尽な育てられかたをしていたなら、すでに遠い過去ですが、怒ることで、その思いを放出しておくのがいいのです。すでに親はいないかもしれません。それでもノートに怒りをかきつけるだけでもいいのです。
ぼくは過去想起と名づけて、数十年も毎朝のように自分の過去を振り返る時間をもつようにしています。
(この項つづく)
源氏物語の登場人物の性格》その231
(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)
☆『源氏物語』の性格描写
○尼になった藤壺の住まいにきて源氏が詠んだ歌。
「ながめかる海人の住処と見るからに
まづしほたるる松が浦島」(榊・202頁)
☆辞書・事典から
ながめかる=(物思いにふけりながら)ぼんやりと見ていること。物思いに沈んでいる。
海人=海で魚や貝を採ったり、塩を作ることを仕事とする人。漁師。漁夫。海にもぐって貝や海藻を採る女性。
見る=見て思う。見て判断する。理解する。
からに=…ために。ばかりに。だからといって。たとえ…だとしても。…たところで
まづ=初めに。まっさきに。第一に。何はさておき。ともかくも。とりあえず。〔否定の表現を伴って〕いっこうに。どうにも。
しほたるる=涙で袖(そで)がぬれる。
訳=ここが松が浦島の海人(あま)の住まいで、あなたがものおもいに沈んでいらっしゃるかとおもうと、まっさきに涙で袖が濡れてしまいます。
☆Comment
藤壺(中宮)の座敷は大部分を仏にゆずっていいて居間は端の方にありました。藤壺が尼になってしまって、源氏は悲しくて仕方ありません。
それにしても後世を信じてくらし、仏事にいそしみ、生活を変えようとするときに、出家するというふうに、仏教が平安貴族の生活に深く入り込んでいることが感じられます。
(この項つづく)
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