鈴木大拙の『日本的霊性』について―第416回――殿岡秀秋筆

 

 

 

鈴木大拙著『日本的霊性』(岩波文庫 1972年版)より。引用は特に断りのないかぎり、本書からです。

 

 

 

☆超個己の人が個己の意識を突き破って、『自分はここにいたぞ』と絶叫するのが霊性的直覚である。

 

「その南無阿弥陀仏がふと個己に復(かえ)るとき、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏せられる、称名せられる。才市が三十年の求道生活はこれを体験せんがためであった。迷子は一歩も内を出なかったのであるが、迷わなければそれがわからぬ。超個己の人が個己の意識を突き破って、『自分はここにいたぞ』と絶叫しなければならぬのである。この絶叫が霊性的直覚である、南無阿弥陀仏の自覚である。才市の歌はすべてこの自覚がもとになっている。」(211~212頁)

 

☆事典・辞書から

 

南無阿弥陀仏=阿弥陀仏に帰依するの意。浄土宗などでは,それを唱えることによって阿弥陀仏の浄土に救済されるとする。弥陀の名号。六字の名号。なむあみだ。

迷子=(マヨヒゴの約)昔は子供がいなくなると天狗・狐狸・鬼・隠し婆などの仕業と考え、また「神隠し」だとした。町や村では夜になると人々が提灯を持ち、鉦や太鼓をたたきながら、関東では「迷子の迷子の◯◯やーい」、関西では「かやせ、もどせ」と唱えて探し歩いた。近代になると、住所・氏名を書いた迷子札を腰につけたりした。

個=自分自身。

己=おのれ。反照代名詞。その人自身,またはその物自体をさす。自分。自分自身。

個己(こき)=自分自身とおのれ。

超個=自分自身を超える

霊性=個人的な安らぎや、人生の目的、他人とのつながりの感覚、人生の意味についての信条といった、奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があること。スピリチュアリティ(英: spirituality、霊性)とは、霊魂や神などの超自然的存在との見えないつながりを信じる、または感じることに基づく、思想や実践の総称である。必ずしも特定の宗教に根ざすものではなく、普遍性、共通性を志向する概念である。

直覚=推理などによらず,直接に感じて知ること。直観的にわかること。

 

 

☆Comment

 

 迷いのはてに超個己の人が個己の意識を突き破って、『自分はここにいたぞ』と絶叫するのが霊性的直覚だそうです。そう言われてもピンときません。それはぼくが霊性を求めて迷子になっていないからでしょう。

 南無阿弥陀仏と称えなくても、道をもとめて、迷子になって、その迷子を自分の意識の中にとどめて道を求めれば、何かに出あえるかもしれません。

 

 

(この項つづく)

 

 

源氏物語の登場人物の性格》その229

 

(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)

 

☆『源氏物語』の性格描写

 

○出家を決意した藤壺の源氏への返歌

 

「大方の憂きにつけては厭えども

 

いつかこの世を背きはつべき」(榊・201頁)

 

☆辞書・事典から

 

大方の=ある社会において一般的であること、またそのさまを意味する表現。

憂き=つらいこと。悲しいこと。

厭う=いやに思う。いやに思って避ける。 「世を-・う」出家する。

ども=…が。…けれども

背き=出家すること。 (世間・人などから)はなれる。すてる。

はつ=続いていたことが終わる。尽きて,なくなる

べき=推量の助動詞。…だろう。きっと…だろう。

 

訳=世の中の悲しいことは避けられましたが、わが子のことだけはいつになったらはなれきることができるのでしょうか。心配でなりません。

 

☆Comment

 

源氏の歌の「この世の闇」を受けて、藤壺は「この世」にわが子のことをかけて、歌にして返しました。

藤壺もじぶんと源氏との子である東宮のことがきがかりでならないのです。

 

 

(この項つづく)

 

 

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