教行信証の読み下し分と訳文――その70

 

 

 

☆アミダを念じれば〈覚りとなる種〉が朽ちること無く宿り続けるという奇跡が起きる。

 

○読み下し分 『顕浄土真実教文類二』その57

 (聖教電子化研究会より引用)

 

76また云わく、いわんや我が弥陀は名をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり、と。已上

 

○『教行信証講義』 山邊習學 赤沼智善 共著発行所 無我山房 平楽寺書店 初版発行 大正3年6月25日                底本  昭和6年5月1日発行 第13版より引用

 

【字解】一。無辺の聖徳 無量無辺の名号の聖徳。

 二。攬入 そのままこちらへとり入れること。また入って下さること。

 【文科】元照律師の釈文のうち、持名の益を示す文を引き給うのである。

(1-576)

 【講義】また云く、その上我大悲の御親にてまします阿弥陀如来は、諸仏と異なりて名号を以て衆生を摂取〈すく〉い給うのである。即ち「この名号を称える者を助くるぞ、信ずる者を救うぞ」と仰せらるる。この名号の謂れを耳より心の底に聞信〈ききひ〉らき、一念嬉しやと称名する時、かぎりなき名号の一功徳は、その念仏の行者の識心〈こころ〉の中にたぶたぶと攬入〈いりこ〉んで下さる。かくて永〈とこしな〉えに成仏の因種〈たね〉となり、頓に、造りと造りし無量億劫の重罪を除き、命終り次第に無上菩提を獲る身の上にしなして下さる。かような広大な御恵みは、信〈まこと〉に少善根で出来る道理はない、如来他力の多功徳、大善根の然らしむる所であると頂かなければならぬ。

 

○訳文(鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳親鸞『教行信証』・東本願寺出版より引用) その70 本文61頁

☆辞書・事典から

 

「アミダは、自身の〈名(な)〉――この耳に、この口にすることのできる――で、すべての者を救済する。そのように聞き、また称えれば、その〈名(みな)〉の有する溢れんばかりの価値がこの心の中へ雪崩れ込むのだ、そして、〈覚りとなる種〉が朽ちること無く宿り続けるのだ。こうして、気の遠くなるほどのカルパを通して積み上げてきた大罪でも、立ち所に拭い去られ、〈最上の覚り〉が獲得される。善き資質を欠く者に、[この奇跡は]起こらない。〔真の〕価値に満たされた〈覚った方〉を念じることだけが奇跡を起こすのだ。」

 

☆辞書・事典から

 

カルパ=劫(こう)は仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位。サンスクリット語のカルパ (kalpa कल्प) の音写文字「劫波(劫簸)」を省略したものである。

 

☆Comment

 

 できれば信仰にいかないで、その奇跡に近いことを体得できないだろうか、と多くの人が考えてきました。その方法も学問的に展開されるようになってきました。信にいかないで、信への修行のエキス(本質。精髄。エッセンス)だけをつかみとろうとするので、要領がいい考え方です。ぼくはその道を進みたいと考えています。

 

 

(この項つづく)

 

 

源氏物語の登場人物の性格》その217

 

(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)

 

☆『源氏物語』の性格描写

 

○源氏が紫の上の字を見て教育に成功したとおもう。

 

「『字はますますよくなるようだ』

と独言(ひとりごと)を言って、微笑しながらながめていた。しじゅう手紙や歌を書き合っている二人は、夫人の字がまったく源氏のに似たものになっていて、それよりも少し艶な女らしいところが添っていた。どの点から言っても自分は教育に成功したと源氏は思っているのである。」(榊・195頁)

 

☆Comment

 

 歳のはなれた若くて美しい女房を教育するというような趣味はぼくにはありません。紫の上は作者である紫式部の思い入れの強い人物となっています。紫式部は二十歳以上も年の離れた夫と結婚し、子供は生まれましたが、たった三年の結婚生活で夫は他界してしまいました。その夫に紫式部は教育を受けていたのでしょうか。

源氏物語では、紫の上を理想の妻として紫式部は描いていきます。

 

 

(この項つづく)

 

 

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