芹沢俊介の『親鸞で考える相模原殺傷事件』
その44
東京一組よにん会2017年8月10日発行の冊子(真宗大谷派 東京教区 東京一組 教化委員会編集 東京都台東区浅草1-9-3 円照寺)
☆聖道の慈悲の限界、自分の挫折を通してしか浄土の慈悲というものは見えてこない。
「――『歎異抄』第四章で言えば、多くの解説書では、浄土の慈悲と聖道の慈悲を完全に分けて考えてしまっていますよね。聖道と浄土と二つの慈悲があって、浄土の慈悲の方がいいだよというような形になっていて、「かわりめ」の部分が蔑(ないがし)ろになっているという気がします。
でも私たちの生き方というのは、結局どこまでも聖道的なものでしかあり得なくて、やはりそこから出発していくしかない。いくら教学的に説明されても、始めから浄土の慈悲というものは見えてこないのではないかと思います。
だから芹沢さんもおっしゃっていたように、聖道の延長上に浄土があるのではない。でも、かといって無関係にあるものではなく、聖道の慈悲の限界、不完全である自分への否応ない気づきと挫折を通してしか、そういう存在を丸ごと包んでくれていた大地への眼差しというものは生まれてこないのだと思います。」(117~118頁)
☆辞書・事典から
聖道と浄土のかわりめ=歎異抄第4章原文
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を もって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難けれ ば、この慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々
聖道と浄土のかわりめ=歎異抄第4章訳文
慈悲といっても、聖道仏教と浄土仏教では違いがある。 聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものをあわれみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいう。
しかしながら、どんなに頑張っても、思うように満足に助けきることは、ほとんどありえないのだ。
浄土仏教で教える慈悲とは、はやく阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称えて仏になる身となって、大慈悲心をもって思う存分人々を救うことをいう。
この世でどんなにかわいそうに、何とかしてやりたいと思っても、ご承知の通り、助けきることは難しいから、聖道の慈悲は、一時的で徹底しない。
だから、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのだ、と親鸞聖人は仰せになった。
☆Comment
ぼくらは自分の生き方としても、社会のあり方としても、聖道的なものでやっていくしかないようです。たとえば社会福祉にしてもそうです。しかし、それには限界があって、すべての人をたすけきることはできません。その限界につきあたってはじめて浄土の慈悲というものが見えてくるのではないか、というのです。
(この項つづく)
源氏物語の登場人物の性格》その216
(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)
☆『源氏物語』の性格描写
○紫の上から源氏への返歌
「風吹けば先づぞ乱るる色かはる
浅茅が原にかかるささがに」(榊・186~187頁)
☆辞書・事典から
浅茅(あさじ)=丈の低いチガヤ。また,まばらに生えているチガヤ。
ささがに=〔クモが小さいカニに似ていることから〕クモのこと。また,クモの網。
訳=風が吹くとまずはじめに乱れて色がかわる頼りないチガヤの原に網をかけているクモなのです、私は。
☆Comment
心変りしやすい源氏をたよりに生きているはかない存在ですと紫の上は歌を返しています。
(この項つづく)
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