芹沢俊介の『親鸞で考える相模原殺傷事件』
その5
東京一組よにん会2017年8月10日発行の冊子(真宗大谷派 東京教区 東京一組 教化委員会編集 東京都台東区浅草1-9-3 円照寺)
☆自分の支援がうまくいかないのは、障害者が駄目だからだと結論づけた。
「自分の支援のあり方に大きく絶望してくれるのならよかったのですが、彼の場合、その絶望が、自分を見つめるチャンスにならなかったのではないでしょうか。支援は自分の思ったようなものではなかった。障害者の現実は、自分の思っていたようなものではなかったと思い至り、思うような支援ができなかったのは、自分の側に問題があったからではないか、と考えていく以前に、自分の支援がうまくいかなかったのは、障害者が駄目な人間だからである、というふうに結論づけてしまった。そこから、障害者は、不幸をもたらすだけの人間である、抹殺すべしというふうに、一気に転換していくのです。」(28頁)
「彼が衆議院議長宛に手紙を書いて持って行ったのは、だいたいその時期にあたるわけです。」(29~30頁)
「安倍晋三から『OK、お前やれ』と言って欲しかったのです。そうしたら四七〇人殺せますよと。これは自己売り込みです。自分は障害者を四七〇人殺せます。『やれ』と言ってくれたならばやります、と。そして、その代りに条件があると言っているのです。五億円欲しい。それから刑は禁錮二年にしてくれ。生きていくためにはこの顔では駄目だから整形して名前を変える。そういうことを全部用意してくれ、と。こういう条件を手紙に書いているのです。こういうところは、マスコミが全然触れていないところです。」(31頁)
☆Comment
人はだれも挫折するものとおもいます。ぼくもいくつかの大きな挫折を経験してきました。そんなときにどうしてきたのでしょうか。自分をよく見つめてきたか、どうかわかりませんが、新しいことにとびついて、それに夢中になるようにしてきたようにおもいます。それもまた挫折します。するとまた次の新しいことに夢中になるというやり方を繰返してきたようにおもいます。
そして今は創作表現に夢中になっています。そのために速読をならい、少しは読む本の数も増えました。それと生活をともにするものとが自分の気持ちを支えてくれているような気がします。
人は何かをするから価値があるのではない、ということを芹沢さんの考え方から学びました。人は存在すること自体に価値があるのです。
何かをすることができるから価値があるのではないのです。ただそこに在ることに価値があるのです。
何もできないから価値がない。あるいは、在ることそのものが他人に不幸をもたらすからよくないというのは、人は何かをするもの、何かできるものだということに価値を置く考え方です。
生れながらにこのような考え方をもつわけではありません。育てられていく過程で、養育者から無意識にまで植えつけられてしまう可能性が高いとおもいます。
「する・できる」で人を計るのではなくて、「そこに在る」ことで人はいいのだ、という人生観を持ちたいものだとおもいます。
(この項つづく)
《源氏物語の登場人物の性格》その22
(国民の文学3源氏物語上 与謝野晶子訳 河出書房新社 昭和39年刊より引用)
☆『源氏物語』の性格描写
「源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壺の宮の美が最上のものに思われて、あのような人を自分も妻にしたい、宮のようなお正はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢はだいじにされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壺の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏はもう藤壺の御殿の御簾の中へは入れていただけなけなかった。」(17頁)
☆Comment
長編物語なのに、源氏は幼いときからすぐに元服して妻をもってという段階に話が移っていきます。ぼくなら子ども期の逸話などいれてしまいそうです。話の中心である色恋沙汰にかかわらないところは大胆に切り捨てているのがわかります。さすがですね。
長編だからといってすこしも緩まない描写が続いていきます。
源氏は母が恋しいのです。桐壷と関係したら母子相姦になるので、紫式部はそれをさけるために、桐壷の更衣を早くしなせておいて、そっくりの藤壺を登場させたのでした。母以上に恋しい女性は存在しないという男の情がよくわかっているのです。
(この項つづく)
(メルマガ・2017年10月13日)
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