芹沢俊介さん講演 泣くということ――その2

やさしさについて(いのちを考えるセミナー) 2014.10.15より

☆「泣く子は育つ」、「泣く子は頭がいい」、という言葉は勢いがなくなった。

「自分(柳田國男)は50年以上旅をしてきたので故老(昔のことをよく知っている 老人 )の資格がある。自分は故老としてこの50年で泣くことの歴史がどのように変化してきたか、解いていく資格があるだろうとおもう。

あるひとつことに視点をしぼって観察していくのは面白い。自分は67歳で、故老として「泣く」ことについて語ることができるだろう。

自分は泣いている声を聞くのがいやだ。ところが、このところ子どもたちが泣かなくなったのは気持がいい。人の泣いている姿をみなくなった。

現代(昭和16年)は鳴き声を聞かなくなった。元気な子どもの鳴く声を聞かなくなった。子どもが泣くのが少なくなった。大人もなかなくなった。昔はそうではなかった。

 昭和16年に泣き虫がリアリティをもたなくなった。長泣きという言葉が死語になった

「泣く子は育つ」という言葉は勢いがなくなった。「泣く子は頭がいい」、「子どもは泣くのが商売だから」。という言葉も聞かなくなった。泣く子を寛容に見守る風土はなくなった。

赤穂義士で堀部安兵衛は切腹しました。その奥さんが尼さんになりました。元禄時代の常識は子どもが泣くというものです。泣くにまかせるのがいい。なぜならよく泣いた子は大きくなると言葉がクリアーに話せるようになるからだ。そういうふうに元禄時代ではいわれていた。

昔は子どもが泣くことに肯定的だった。現代はそういう視点が薄らいできた。子どもが泣くことしか表現手段がない時期は短い。成長してくるとほかの動機がまじってきて鳴き声に変化がおきる。泣き声のなかに欲望をまじえたりして変化してくるのだ。そういうことに昔の大人たちは敏感だった。

泣き声の変化は子どもの欲望や願いがはいってきたからだ。泣くことに大らかな社会はその変化を的確にキャッチしていた。当時の大人はわかっていた。

今(平成26年)は、子どもの泣き方について、それがこういう意味だと理解することは難しい。泣くことに社会が肯定的でない。泣くことを制限しているからだ。現代社会は大きくそういう方向へ傾いている。だから子どもの泣き方の差異を読み取るのが難しい。

本来なら泣き声の現象論が書かれてもいいのに、それはない。子どもは泣き声に欲望をいれて、コミュニケーションしていたが、60年前からそういうことが減ってきたのである。」

comment

 子どもの泣くことについて、改めて考えてみたことなどありません。芹沢さんの視点はとてもユニークです。とりあえず6歳になったばかりの男の子の孫がいますから、彼を観察してみます。6歳の男の子はよく泣きます。そしてとても感情表現が豊かです。感情を言葉にすることができます。それは可愛らしいです。しかし、泣いている姿ついては肯定的な視線をもっていなかった自分に氣づきます。豊かな感情表現と、泣くことはもしかしたら表裏の関係にあるのかもしれないとは思っていませんでした。感情を、とくにうれしいという感情をはっきり表現することには、とてもよく共鳴できていましたが、子どもが泣いてしまうことについて、とがめだてはしませんが、肯定的にみてはいませんでした。

これは改めなければいけないことだときづかされました。

(この項つづく)