定信の「寛政の改革」は、「白河の清きに
魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」
と揶揄された。生来の一途さと8代将軍吉宗
の孫というプライドが相まって、妥協のない
幕府経営になったと思われる。
定信の政治を象徴しているのは、「尊号一件」
である。光格天皇が実父閑院宮典仁親王に太上
天皇の尊号を贈ろうとしたことに対し、天皇位
に就いていないという理由で反対した。又、将軍家斉が
父治済に大御所の尊号を贈ろうとしたことにも
将軍に就いていないことを理由に反対している。
並みの老中ならば黙認するところだが、将軍の
孫というこだわりが妥協を許さなかったのだろう。
「幕府の要職者は、卑しい身分の出身者が多い」と
記録していることからも権威を振りかざす鼻もち
ならない性格の持ち主だったことが覗える。
田沼と同じく、定信も志半ばで辞任に追い込まれている。
直接辞任を迫ったのは、将軍家斉だ。
しかし、実際は「大御所」尊号を得られなかった父治済が
糸を引いていたのと思われる。おそらく尊号不承知も想定内
だったはずだ。
一橋治済の描いたシナリオは、次のようなものだ。田安家の定信を
田沼に取り入り、白川藩へ追いやる。これで、将軍職に就く
ご三卿のライバル田安家定信の将軍職への芽を摘む。
この間、田沼意次の後継者意知の息の根を止める(殺害)。
(清水家は家格がやや劣るため将軍は出せない)
一橋家からわが子家斉を将軍に就ける。将軍家斉が成人後は
定信と反目させ、幕府老中から追放するというシナリオは
見事に成し遂げられた。
家斉は、55人の子(男28人、女27人)をなした。男子なら養嗣子、
女子なら藩主の室として、ご三家、ご三卿、有力大名に送り込んだ。
11代から14代までは、一橋家斉直系に将軍が就いた。
(15代一橋慶喜は水戸家出身)
一橋治済、家斉親子は、田沼意次、意知親子、松平定信を
幕府から追放し、権勢を振るった。だが、徳川幕府を終わ
らせた張本人だったと結論づけて間違いない。
Q. 父治済への尊号に異を唱えた定信に対し、
家斉は刀を抜いて斬りかかろうとした。
その時、御側御用取次・平岡頼長が機転を利かせ、
刃傷を止めさせるために発した一言とは?
A. 「御刀を拝戴(頂戴)されよ」と言われると、家斉は
拍子抜けして、定信に刀を授け、部屋から立ち
去った。