688年、持統天皇は即位の翌年に早くも藤原不比等を朝
廷に迎い入れている。不比等は、「乙巳の変」のご褒美とし
...て、中大兄皇子(天智天皇)から下げ渡された妊娠中の女御
(与志古娘)の子なので、天智天皇の落胤である。「大鏡」
「公卿補任」「尊卑文脈」等の歴史書にも天智天皇と不比等
の親子関係が記述されている。朝廷内にもその事実は知られ
ており、持統天皇と二人三脚を組む不比等に異議を唱える者
はいなかったと思われる。690年、都を新たに建設され、「藤
原京」とネーミングされたことからも藤原不比等が重用さ
れたことが分かる。
不比等最大のイノベーションは、古事記
(712年)日本書紀(720年)の編纂である。両方とも天武
天皇が編纂を指示したと公式に伝わっている。しかし、実際
の提案実行者は藤原不比等であり、命令者は持統天皇であ
る。697年、持統天皇は退位するが、異母妹の元明天皇在
位712年に「古事記」、持統天皇の孫元正天皇在位720年
に「日本書紀」がそれぞれ編纂されている。いずれも朝廷の
中心者不比等が監修している。
「古事記」は、天皇家の成り
立ちを物語ることにより、支配の正当性を国内向けに主張す
る内容。推古女帝(33代天皇)、聖徳太子出現までを大和言
葉を漢字にして上、中、下の3巻にまとめられている。
一方、「日本書紀」は、持統天皇(41代天皇)までが書か
れ、日本国家の成り立ちを全30巻にまとめている。中国王
朝に対し、日本の成り立ちを紀元前660年として、同程度
の独立国家であることを主張。本書が中国に向けて日本と国
名を公式に名乗った初見である。
日本の天皇家は、中国と異
なり、交代することがないことを強調し、内外に日本のアイ
デンティティ(存立基盤)を明示した。又、「記紀」は単一民
族国家日本がスタートする画期的な書物となった。世界一古
い国の礎は、不比等が築いたのである。偉大な人物は、表に
出ずにひっそりと名を残す。
不比等の業績は、まさに「知る人ぞ知る」というものだ。