前田利家は、秀吉と同郷(尾張国現・名古屋市)だったため、若い頃から親しかった。
14歳の頃、織田信長に仕え、槍の名手で「槍の又左」と言われた。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、
後に羽柴秀吉に臣従した。
以後、豊臣家の宿老とし加賀国・越中国を与えられ、加賀藩百万石の礎を築く。
また、豊臣政権五大老となり、豊臣秀頼の後見役を任じられる。秀吉の死後、
徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。
会社(藩)が大きくなると統制をとるために「人事部(目付け)」が社員を監督する
ようになる。前田家も目付けを設けようと家臣が利家に具申した。
Q.目付け役設置案に利家は、何と言ったか?
A.反対した。目付けが好き嫌いによって個人を評価すれば、
ものさしが狂ってくる。目付けがいらないように一人一人が
良い心がけをもてばいいと言ったという。