韓国併合
韓国併合(かんこくへいごう、英: Japan's Annexation
of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併
を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓
伏するまで、35年間続いた。
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 AD | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
史前 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 346-660 | 高句麗 前37-668 | |||||||
新羅 356- | ||||||||||
統一 新羅 | 唐熊津・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東 都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治 1910-1945 | |||||||||
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
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大日本帝国は,江華島事件を機
に朝鮮と不平等条約である
日朝修好条規を締結。
これを契機に朝鮮は列強諸国
とも同様の条約を結ぶことで開
国を強いられた。大日本帝国側
は条約締結の際、朝鮮を清朝の
冊封体制から離脱させるため「朝
鮮は自主の邦」という文言を入れ
ることに固執した。(「朝貢国」は、
即「従属国・保護国」を意味する)
日本政府には、朝鮮を独立国家とし、
ロシアの南下を防ごうという意図が
あった。
ハーグ密使事件以降、大日本帝国国内
では、「朝鮮を自国領土に組み込み朝鮮
人を皇民とせしは皇国民の質の劣化で
ある」という見地により、反対の意見も
根強かった。併合時に必要となる莫大な
資金の負担についても政財界より併合
反対の意見が根強くあった。
ロシアの南下と日露戦争
伊藤博文の暗殺を受け、韓国側
「一進会」の上奏声明等を経て韓
国併合の話が持ち上がる。この時
自称会員100万人を誇る韓国最大
政党である「一進会」は併合推進
派であった。
(一進会とは、日本で言えば「経団連、日本青年会議所を統合した
ような組織である)
二分された国内世論に慎重な日本政府は併合の正当性について
列国に打診している。アメリカとイギリスは、このまま韓国を放置
することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成した。
その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時
の主要国からの反対も全くなかった。各国の賛成を得て、また
一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。
一進会の上奏声明
12月4日には大韓帝国の一進会が「韓日合邦を要求する声明
書」を上奏した。「韓日合邦を要求する声明書」は大日本帝国
と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの
大帝国を作るという、国際的に見て、両国の時勢・国力比から
考えても受け入れられない提案であった。 また、一進会の声
明の中で「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費
やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害
は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込
まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国
はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪わ
れ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三
次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いた
のである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、
これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本
天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇
を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明
もあり。
日本との併合による地位の向上をより求めたとの見識がある。
併合
(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相
により調印され、29日に裁可公布により発効し、
大日本帝国は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世
帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統
監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮
総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の
皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に
貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
通常、「植民地」にした場合、当該国の王族、貴族は
一般人に格下げされ、王家は破壊される。
身分解放(平等)
李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持
も姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく
登録させた。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載し
ていたが、統監府はこれを削除したのである。これ
により、身分開放された賤民の子弟も学校に通える
ようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗
議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機
会を与えるべきと考える日本政府によって即座に
鎮圧された。
土地整備・払下げ
朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)
の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所
有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題
が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められ
た。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された
土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認
める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの
所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に
朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、
一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。
土地は全体の10%ほどとしている。山本有造によれば総
督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする。
学校建設増強・教育充実
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が
整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を
改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校
程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで
増加した。
1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を
必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字
率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。 学校
教育における教授言語が日本語であったことをもって、
「言葉を奪った」という評価がなされることがある。これに
対しては、朝鮮語が科目として導入されたこと、朝鮮語に
よる文化活動が許容されていたことを考えれば、言葉を奪った
という表現は当たらない。 また、ハングルは併合以前は漢字と
比べて劣等文字として軽蔑されており、あまり普及してい
なかったというのも事実である。