三方ヶ原の戦い | |
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「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」 歌川芳虎 画 明治7年(1874年 ) |
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戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:1573年 1月25日 | |
場所:三方ヶ原 周辺 | |
結果:武田軍の圧勝 | |
交戦勢力 | |
武田 軍 | 徳川
軍
織田 軍 |
指導者・指揮官 | |
武田信玄 | 徳川家康 |
戦力 | |
27,000~43,000 | |
損害 | |
500(上杉家文書) 100(松平記) |
1,000(伊能文書
) 数千(甲斐国志) 500(松平記) |
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、
元亀 3年12月22日 (1573年 1月25日 )に、遠江国 敷
原町近辺)で起こった.。
信玄の西上作戦 の過程で行われた戦いであり、
家康が大敗したことで有名な戦である。
顰像(しかみ像)
描かせた。これが現在、徳川家康三方ヶ原戦役
画像、通称「顰像」として残っている。
血気にはやって武田軍の誘いに乗り、多くの将兵
を失った自分に対する戒めとして描かせたとして
知られている。この後に熱くなった自分を抑えるた
めに絵を見て自重していたという逸話が残っている。
軍略の重要性を自らに確認させていたとも言われる。
家康が出陣した理由
通説では、信玄 の挑発(相手にされず素通りされたこと)
に乗ったとされているが、様々な説がある。
あえてここで出撃することによって家臣や国人 衆たちの
信頼を得る狙いがあったとする説だ。ここで武田軍が
去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る
せよ戦役終了後に徳川氏 に有利になるよう戦略的アピー
ルを目的としたと考えられる。
Q. 武田軍兵約4万に対し、徳川軍は、何人か?
A. 約2万人