邪馬台国3・魏志倭人伝明記 | 社長力検定「後継者育成塾」

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日本の正史に記録が無いことから<邪馬台国はなかった>

というような主張もあります。確かな伝承が皆無で、

全く痕跡を残していないからです。福岡県朝倉

市が<卑弥呼の里>としてアピールしていますが、邪馬

台国を特定している訳ではありません。考えられるのは、

本当に邪馬台国が無かった、或いはその痕跡が完璧

に消された、のいずかです。

元々邪馬台国所在地論争は、<三国志・魏書東夷伝>

通称魏志倭人伝に倭国女王の都として記されていること

が根拠となっています。訝る向きもありますが、中国では

王朝が交代すると必ず新王朝の文官が前王朝を分析し

歴史文書に残す仕来りになっています。この場合、三国

時代蜀に仕えた後、西晋王朝の文官になった陳寿が

著した列記とした書物なので、疑いようがありません。

卑弥呼が死去したと考えられる<西暦248年>から

30年程度しか経過していない時点に書かれているこ

とからも信憑性が高いと考えられています。

<邪馬台国>ではなく、<邪馬壹国>と読むのが

正しいという著作もありますが、この所在地論争は

決定的な物証に欠ける為、半ば<迷宮入り>事件

となっています。

しかし、歴然として残されている以上、確かに

あったと思わざるを得ません。

但し、我が国は<倭国>と名乗ったことは、一度も

なく、勝手に中国側が付けた国名です。なぜならば、

当時我が国は九州全土を統一する王権が無かった

ので、全体名称を使うことができなかったのです。

2、3世紀頃は、現在の市町村規模が群雄割拠する

まだ小国家乱立の時代でした。従い、倭人が形成する

<邪馬台国>だったのです。





次回以降、実在を前提にして<大分説>を論じて

行きます。TOKIO