<8.17> トキオ会にて<邪馬台国・大分説>を発表することに
しました。因みに、本会は、ファ―ストネームが男性ならば、<トキオ>、
女性ならば<トキ>という名前の人たちが集まっている親睦会です。
但し、会合には、会員の紹介であれば誰でも参加できます。
私は、すでに大分県大分市上野丘荷揚町3丁目付近を
邪馬台国所在地として特定しています。しかし、現在この丘には、
大分県立美術館が建てられている為、発掘調査などをすることが
できません。
本稿では、一般的な人でも理解がしやすいようにできる限り平易
な言葉を使い、大分説を述べていきます。
1. 従来の2大候補地
従来、教科書に紹介されているように<九州説>と<畿内説>の
2大候補地が並列され、一般的に定説がないとされています。
畿内説を主張するグル―プは、纏向遺跡をどうしても<邪馬台国>
としたいようですが、相当無理があります。
記紀神話に記されているように神武天皇が、奈良橿原で紀元前660年
に初代天皇<おおきみ>に即位されたことを誇示するための言説としか
思えないのです。
この説に従うと<魏志倭人伝>中の<邪馬台国>が、九州で一大勢力を
持っていたことになり、神武王朝が2世紀から3世紀にかけて中断してしま
うのです。あるいは、当該時期だけ移動したことになります。
ましてや魏に対し、狗奴国との戦いに加勢を要請したとなれば、神武王朝
の威信に傷が付いてしまいます。
従い、正史とされる記紀神話に一切<邪馬台国>は、登場しません。
我が国の天皇制に疑念を抱かせないような大きな働きが加わっている
ような気がしてなりません。
彼らの主張は、纏向遺跡ほどの大きな遺跡は、我が国最初の統一政権
の誕生地に相応しいという論調しかなく、この遺跡群を自慢しているだけ
のように感じます。次回は、畿内説の根拠としている<炭素14年代測定>
を取り上げて説明します。TOKIO