【愛は共鳴なり】 書評の原稿
進藤龍也
「なぜ、こんな目にあわなければならないのか」樋野興夫先生の本を読んで、得たことを一言で表すなら【愛は共鳴なり】でした。
2016年によく言っていた言葉は「信仰はどんな時も信じることだ」でした。そして2017年の教会のテーマは「信仰の増し加わる年」でした。
これは、預言的な言葉でもありました。
そんなテーマの2017年の3月に20歳になったばかりの私の娘が自死してしまいました。
父祖ヤコブは溺愛するヨセフが死んだと思い込んだ時に【慰めを拒んだ】とあります。娘を亡くし、深い悲しみの中にあった私は、この聖句がやっとわかったのでした。
「大丈夫?」と声をかけてくれる人の言葉が一番辛い。大丈夫なわけがない。そっとしてほしい。しかし、そうもいかない。心配して飛んできてくれた友人、知人もいる。気持ちは嬉しいのですが、今はありがた迷惑。礼拝に出るだけで精一杯。礼拝に命をかけろと叫んでいた手前、礼拝には這うようにして出席しました。
「立ち上がるために悲しみに向き合わせてください」と、お願いしたものの、牧師を辞めることを考えておりました。神に召されて牧師になった。ならば神に召されて辞めようと。しかし、辞めることではなく続けることが神のご意志でした。(経緯はここでは割愛させてもらいます)そして新会堂が与えられ、毎年5人ほどの方が洗礼に導かれていますので神のご意志に従って良かったと心から今も感謝しています。
電話にも出ない私を心配して、娘の葬儀の数日前に師匠である中野雄一郎牧師が緊急祈祷会を呼びかけました。その日、突然の呼び出しに集まってくださった教会員12人が共に祈ってくれたようです。その時に師匠はこう言ったそうです。今一緒に進藤龍也と泣けない人は教会から去っていいんですよ」と。その話を聞いた私は吹っ切れました。
私が一番辛かったこと、恐れていたことは、批判されるということでした。そして一緒に泣いてくれない、気持ちをわかってくれる人がいない!ということでした。
引用されているユダヤ教のラビ・シュナーの「なぜ私だけが苦しむのか」という本を読んだ時には、私は娘を亡くしておらず本当の意味で理解していなかったと思います。しかし、この樋野興夫先生の本を読む今は娘を亡くした遺族として読むので「アーメン」の連続でした。
癌サバイバーの人、それを支える家族、担当医、霊的に受け止め祈る牧師や教会員。樋野先生も多くの方を支え、その声を拾い伴走してきました。その集大成と言うべきこの著書を多くの方に読んでもらいたいと思います。
最後に私のベスト文中を紹介させてもらいますおわらせてもらいます。
「正論より配慮」
「苦難が人を成長させるのは事実ですが、苦難そのものが人を成長させるわけではありません。苦難に際してどう向き合うかが肝心です。クランによって心が曲がってしまい、さらなる苦難を引っ張り込むこともあります。苦難に向き合う時、その背中を押し手を差し伸べてくれるのは神であり、良き隣人ですしかし、本人に意思がなければ、神も周りの人もお手上げになることでしょう。」