教会は貧しい人を受け入れて、助ける所 | 進藤龍也牧師のヤクザな日記

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教会は貧しい人を受け入れて、助ける所

 

ユダヤの格言に

「魚を与えるよりも、魚の取り方を教えろ」というのがあるが、

まさに罪人の友 主イエス・キリスト教会と刑務所伝道は、人、ひとりの自立を目指したものである。

 

自立には精神的自立も含まれる。

 

[レビ記 5:11]

 もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。

 

【聖家族】

キリストの家族は山鳩を捧げに神殿に登ったとの記述があり、貧しい部類であったことがわかる。

 

今日の聖句は聖家族よりもさらに貧しい人たちが、礼拝できるようにと、神ご自身が心を砕き、小麦粉で罪の贖いができるようにしているところである。

 

適用

教会は、貧しい人を受け入れなければならない。

教会は、貧しい人を助けなければならない。

 

元来、貧しい人にも罪の贖いのためには、手ぶらではできないように、なんらかの犠牲を伴わなけらばならないということを教えなければならない。

もちろん、現代において、10円でもいいだろう。献金がなければ礼拝できないわけではないが、犠牲を払わずして礼拝するというのは成長がない。献身もない。礼拝とは献身である。

 

10円すらなくったっていい。

魚を取れるように教え、手伝ってあげればいい。

 

レビ記4-6章だけで

「祭司はその人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。」

 

これが10回も出てくる。つまり、それぞれの生贄について、必ず出てくるフレーズである。

 

これはまさしく、従順が求められ、自分のやり方ではなく、神のやり方によって、それに従い、委ねる時、ということだろう。

また、罪という厄介なものに対する徹底抗戦がなければ、私のように弱い存在は、いつも罪に同意して罪を犯してしまう。

 

キリストの兵士とは、いつも罪からの誘惑に対して、徹底抗戦するものである!

 

祈り

[ヤコブの手紙 2:5]

私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。

 

このことを喜びます!ハレルヤ!