徒然草 #72

 

世に伝ふる事、まことはあいなきにや

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、
多くは皆虚言”そらごと”なり。


あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、
年月過ぎ、境も隔たりぬれば、

言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、
やがて又定まりぬ。


道々の物の上手のいみじき事など、
かたくななる人の、その道知らぬは、
そぞろに 神のごとくに言へども、道知れる人は
更に信もおこさず、音に聞くと
見る時とは、何事もかはるものなり。

かつあらはるるをも顧みず、口にまかせて言ひ散らすは、
やがて浮きたることと聞ゆ。

又、我も誠しからずは思ひながら、人の言ひしままに、
鼻のほどおごめきて言ふは、その人のそらごとにはあらず。
げにげにしく、ところどころうちおぼめき、よく知らぬよしして、
さりながら、つまづまあはせて語るそらごとは、
おそろしき事なり。

我がため面目あるやうに言はれぬそらごとは、
人いたくあらがはず。

皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて、
聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。

とにもかくにも、そらごと多き世なり。ただ、常にある、めづらしからぬ事のままに心得たらん、
よろづ違”たが”ふべからず。下”しも”ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。


よき人は怪しき事を語らず。


かくはいへど、仏神”ぶつじん”の奇特”きどく”
権者”ごんじゃ”の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。

これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、
「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方はまことしくあひしらひて、

偏”ひとえ”に信ぜず、

また疑ひ嘲るべからず。

 

 

世に語り伝える事は、真実は
つまらないからであろうか、多くは皆、 虚言である。


人は 実際より大げさに話を作るが、まして年月過ぎ、
また場所も離れていれば、言いたいままに話を作り、
筆で文字に書きとどめてしまえば、それが定説になってしまう。
 

それぞれの専門の道に達した達人の技なども、道理を知らない人で
その道を知らない人は、やたら神のように言うけれど
その道を知っている人は まったく信じる気も起こさない。

噂と実際に見るのとは、何事も違うものである。

 

一方では、すぐ嘘とばれるのを顧”かえり”みず、口任せに言いふらすのは、
すぐに根拠の無い事とわかる。又、自分も本当らしくないとは思いながら、
人が言うままに、鼻のあたりをひくひくさせて言うのは、その人自身から出た虚言ではない。

 

いかにも本当っぽく、所々話をぼかして、よく知らないふりをして、
そうはいっても、つじつまは合わせて語る嘘は ・・・恐ろしい事である。

自分にとって面目の立つように言われた虚言は、人は大きくは抵抗しない。
皆人が面白がっている虚言は、一人「そうではないようだが」と言っても仕方ないので、
黙って聴いているうちに証人にさえされてしまい、
いよいよ嘘が事実のようになってしまうのだろう。


兎に角、嘘の多い世の中である。

ただ、常にある、めづらしくも無い事のままに心得れば、
万事、間違えることは無い。 庶民の語る話は どれもおどろくような

面白い話ばかりである。

 

だが、まともな人は 怪しい話は語らない。

 

そうはいっても、聖人伝や高僧伝などは むやみに 疑うものではない。

こういう話は 世俗の虚言を心の底から信じるのもばからしいし、
「ありえない」など言っても 仕方ないことなので、
大体は本当のこととして受け取っておいて、
熱心に信じてはいけないし、だが、疑って馬鹿にしてもいけない。

 

 

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