あなたが最善を尽くせればそれでよい
あなたが最善を尽くせばそれでよい
どんな世界にも、決まり事がある。それは、世界を支配する物理法則から、法律のような明文化されたルール、学会のガイドライン、仲間内での暗黙の了解まで、さまざまだ。
医学の世界にも、もちろんあるのだが、実は、ここだけの話、医学というのは、まだまだ未完成の学問だ。一番多くの人が亡くなる癌という病の治し方から、生命とは何かという基本的なことすら、よくわからない。
なかでも、救急救命の分野は、まだまだ解決できない問題が山積みだ。
人の命を助ける、そんな単純な目的の達成率は、決して高くない。
そもそも、人の死亡率は、100%。
誰もが、いずれ死ぬ。どんなに医学が発達しても、生まれる人の数が減らなければ、死ぬ人の数も減らない。
これは、人に限らない。どんな流行商品も必ず流行らなくなる。どんな企業もいつかは廃業する。どんな優良顧客もいつかは顧客でなくなる。どんなに愛し合っていた恋人たちの関係も、日々変化していく。
諸行無常だ。
それは、悲しいことかもしれないが、悪いことではない。人が死ななくなったら、それこそ大変だ。地球の生態系はあっという間に壊れてしまうだろう。現に今起こっている環境問題も、食糧危機も、人が死ににくくなったことが一因であることは否めないかもしれない。
さて、救急医療に従事する医療従事者たちは、人の命を救おうと日々奮闘している。
そのミッションは、簡単ではない。搬送された時点で、すでに亡くなっている人もいる。
その一つ一つが、人の死という一大事だ。血が流れ、膨大な医療費と労力が費やされ、家族が泣き叫ぶ。
しかし、そこで、うまく助けられなかった時、救命に成功しなかった時、その一人の命の灯が、消えてしまった時、医師たちは、いちいち落ち込むだろうか?責任を取って辞任するだろうか?自分を責め、警察に自首するだろうか?
世間の一部の風潮は、医師がそうすることを期待するようではある。実際に、逮捕されてしまった医者もいる。
しかし、そういう風潮を支持する人たちは、いちいちそんなことをしていたら、誰も救急医療なんてやっていられないことに気づいていない。ましてや、自分がそうした現場に立ったらどうするかなんて、想像だにしていない。
必ず死に至る命の、絶体絶命のピンチに沿おうとする医師たちは、いちいち落ち込んだりはしない。何人死んだって辞めない。自分を責めない。
これは、無反省というのとは違う。反省はしつこいくらいにやる。どうしたら、その人を助けることができたのか、次に、似た状態の人が搬送されたらどうするか、それこそ寝食を忘れて検討する。
目的は、相手の命を守ることだが、大切なのは、相手がどうかではない。
自分が、その時の状況で、最善を尽くせたかどうかだ。自分が最善を尽くしたならば、それでいいのだ。
最善を尽くそうという気持ちがなくなったら、その時が、その場を去るべき時だ。最善を尽くさない人間が、一刻を争う命の最前線にいることは許されない。
しかし、最善を尽くしたら、その人の命が助かるか、ことが成るかどうかを決めるのは、自分ではない。
使い古された言葉だが、人事を尽くして天命を待つ、だ。
悲しむ人はいる、つらい現実はある。しかし、その場に立ち続けるならば、自分が救急医であり続けるならば、一つ一つの結果に立ち止まって落ち込んでいる時間はない。
またすぐに、別の、今、命の危機に瀕している人が運ばれてくるのだから。
飛行機で手を上げられますか?
飛行機で手を上げられますか?
いきなり、ストレスフルな思考実験の世界へご招待しよう。
「どなたか、お医者様はいらっしゃいませんか?」
飛行機内で、キャビンアテンダントがこう呼びかけているのを聞いたことがないだろうか?私は医者じゃないから関係ない、と思っているだろうか?
では、もし、あなたが医者だったら、手を上げるだろうか?
もちろん、誇らしく手を挙げる?
実は、私の周囲の医者たちに話を聞くと、医者は手を上げないという者は少なくない。
「私は眼科だから」
「トラブルに巻き込まれたくないから」
「他にも医者がいるはず」
いろんな理由はあるだろうけれど、とにかく、手を上げないことを決断する医者は少なくない。けしからん?医師免許剥奪?
しかしこれは、医師だけの話ではない。
例えば、あなたが夜道を歩いている時、後ろから、
「助けて~」
悲痛な女性の叫び声が聞こえたとする。かなり近い。
あなたは、どんな行動をとるだろうか?助けに行く?相手は屈強な強盗で、ナイフや銃を持っているかもしれない。大勢かもしれない。
「私は力ないし」
「君子危うきに近寄らず」
「美人局かもしれないし」
「誰か他の人が助けてくれるさ」
リスクを考えて、尻込みする人は少なくないだろう。
医師にとっても、機内で急患に対応するリスクは決して小さくない。医療機材はもちろんないし、自分の専門分野でない可能性の方がむしろ高い。変にかかわりあっても、診療報酬を請求できない可能性が高いから、メリットがないどころか、経過が良くなかった場合に、訴えられるリスクさえ生じる。
助けるかどうか、手を挙げるかどうかは、何で決まるのだろうか?
自分に助けられる能力があるかどうか?
成功率はどのくらいか?
コストとベネフィットのバランスはどうか?
実際は、そんなことをごちゃごちゃ考えている人は、まず間違いなく、助けない。手を上げない。なんだかんだと考えている間に、タイミングを逸し、ますます手を上げづらくなる。夜道なら、考えながらも足は進み、声から遠ざかる。そして永遠に、サヨナラだ。
それでいいじゃないの?
では、助けを必要としているのが、あなたの愛する人だったとしたらどうだろう?
それは全然話が違うよ!
助けるに決まってる!…本当だろうか?
「仕事が忙しくて」
「気づかなかった」
「最近、あいつ冷たいから」
実際は、愛する人のピンチに力になる決断をせずに過ごしてしまうことは、多くの人にとって、そう珍しいことではないのではないか?私にも思い当たる節はありまくりだ。
逆に、
「はい、私は医者です」
すっと手を挙げる医者は、いったい何を考えているのだろう?
実は、何も考えていない。考えていたら、挙げられない。手を挙げる医者の中には、ごちゃごちゃ考える代わりに、こんなシンプルな思いがある。
「私は、医者だ」
自分は人を助ける存在であり、結果がどうなろうとも、助けを求めている人に最善を尽くすことは、私が私であると同じくらい当然のことだ、という思いだ。
救急搬送受入れ拒否の問題が、連日とり立たされている。これも、医師は状況を考えれば考えるほど、受けられる患者は少なくなる。
「ベッドが空いてない」
「自分の施設がベストではないかもしれない」
「他にも患者が来ている」
「結果が良くないと訴えられたり、逮捕されたり、マスコミに非難されたりする」
考えれば考えるほど、やばい患者は受けない方が、賢いに決まっている。
自分は何者か、ということを胸に置いていれば、考える前に答えが出る。
そもそも、利益率が高くリスクの低い眼窩や内科ではなく、救急で働くことを選ぶということ自体が、付帯状況を勘案してというよりは、アイデンティティからの決断のことが多いだろう。私は学生時代から、まず、飛行機で手を上げられる医者になりたいと思っていた。それが医者になるということの象徴のように思っていた。
自分は、愛する妻を守る男だ、そう一つ胸に置いているだけで、あなたは、何も考えずに実行することがたくさんあるはずだ。
助ける方法は、助けると決断してから見つかる。すぐに声の方へ駆けつけるか、110番するか、自分も大声を出すか、助けると決断さえすれば、いろんな方法が見えてくる。
決断は、考えてするものではなく、自分が何者かを明確にした時、瞬時になされるのだ。
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