題名 迷い込んだ二人

    主な登場人物

       斗史   会社員

       舞(妻) パートタイマー

 

 「なんなの、ここで食べるの」
舞の抑揚を抑えた話し方は、これからしばらく不機嫌な状態が続く前兆である。

斗史は、その間は防戦一方になることを覚悟した。

そこは食堂らしく、簡易テーブルと折りたたみ式椅子が並んでいた。
斗史は、はぐらかすように、
「温泉がいいってネットに書いてあったから、温泉は楽しみだね」
舞は斗史の話などぜんぜん聞いていない。
「これだけ!、お肉が一つもなさそう」
夕食直前に着いたので、食堂は配膳が終わって、通路からも良く見えたのだ。

見えるのが全てなら、質素な食事だ。

斗史は普通の温泉旅館をとったつもりだったが、来てみたら湯治宿だったのだ。
「秘境の温泉と書いてあったじゃない、なんで湯治場と気づかなかったの、ちゃんと調べたの」

舞は一方的に攻め立てる。
「温泉がいいと言ったのは舞だろ、一緒にネットを見て決めたじゃないか、気が付いていたら言ってくれればよかったのに」
「斗史が急に旅に出たいと言い出したからじゃない。パートだって休むのは大変なんだから、皆に迷惑かけるし、チーフには文句言われるし。温泉の細かいことなんか知らない」
こんな時、斗史はこれ以上話さないことにしている。

 受付で鍵を受け取り薄暗い廊下を進む、つきあたりの部屋らしい。

部屋は谷に面し対岸の木々が窓越しに見え、なかなかいい感じだ。

斗史は、廊下の感じから部屋も薄汚いのではないかと不安だったので、少しほっとした。舞も洗面所から出ると、

「結構気持ちいい部屋ね」

と室内を見回しながら言った。

 夕食の制限時間が六時半というので、荷物を部屋の隅に置き、急ぎ食堂へ向かう。
テーブルにお膳が二つ残っている、二人が最後ということだ。

ご飯と味噌汁をそれぞれよそい、お膳のある席まではこぶ。
「本当に肉はないね」と斗史は小さな声で言った。

肉の無いのが自分の責任のようになってしまっているのを感じた。

舞は返事もせずに黙々と食べている。
 食後、部屋に戻った途端、舞が上ずった声で
「メール繋がらない、圏外よ」と言い出す。
「エッほんとかよ」と斗史もあわてて携帯を手にした。

圏外のマークがしっかり出ている、窓辺に寄っても圏外は同じだ。
「三日間も切れたらどうなるの、繋がるところ何処かない」舞は狼狽している。
「無理かもしれないな、玄関の横に電話あったよ、電話したら」
「電話してどうするの馬鹿みたい、繋がる場所に行くしかないわ、早く行きましょう」
「これから行くのかよ」
「当たり前でしょ、三日も繋がんなきゃ、皆にどう思われるか分んない、うまいことメール出しておかなきゃ」
 山道を下り国道に出ると繋がった。脇に車を止める。

舞はもう携帯と格闘している。

斗史もメールを打ち始めた、会社の同僚に繋がらない状況を知らせておくことにした。いつもなら休みに繋がらなくても、気にもならないが、今回は違う。

部長からひどい叱責を受け、頭にきてしまい、急に休むことにしたからだ。

タイミングからして、感情的に休みを取ったことは見え見えで、こんなときに連絡が取れないのはまずいと思った。
斗史が一通打つあいだに舞は何通も打ち、ピロン ピロンと返信もきていた。
 舞は、斗史が何処でもいいから出掛けたいと言い出した時、あまりに急なので反対したが、珍しく強く言い張るので仕方なく、温泉ならと同意してここに来たのだ。
「帰って温泉に入ろう」舞は打ち終わったらしくいつもの表情に戻って言った。
 浴衣に着替え、一時間後に上がる約束をして温泉に向かう。

斗史は、屋内の風呂にちょっと入り露天風呂に向かった。

温泉の色は濃い茶色でいかにも薬効がありそうな感じである。

露天風呂は木枠の浴槽が崖に迫り出すように作られていた。

浴槽の先は谷になっているようで、下からザーザーと沢音が夕闇前の空間に響いていた。露天風呂の温度はかなり低い。

 景色を見るでもなく、ただ目を泳がせているだけの斗史は、部長から『お前の頭は重石か』の言葉が頭から離れない。皆の前で言われた屈辱感と、皆の哀れむような視線が目の前に浮かぶ。斗史はこの仕事を続ける自信がなくなっていた。会社を辞めたいとも思った。しかし、舞と結婚したばかりなのに無責任なことは出来ない。

次の仕事が見つかる見通しもない。次から次と考えは留まることがない。

どの位の時間が経ったのか。おそらく大した時間ではないはずだが、堂々巡りの進展しない考えのためか、斗史は風呂に入り続けるのが耐えられなくなった。

考えを振り払うように、露天風呂から上がり部屋に戻った。

疲れを感じた。横になって休もうと布団を敷く。
 舞は約束の時間より大分遅れて戻ってきた。

斗史が二重窓の間に冷やしておいた缶ビールを取り出し茶碗に注ぐ、乾杯して飲む。
「斗史、会社のストレスを発散したかったのに、ここじゃ期待できないかもね」
斗史は、舞に言われるまでもなく、気分転換にはほど遠く、かえってストレスが溜まりそうだと思っていた。

秘境というだけあって静かだ。車の音はなく谷川の瀬音がかすかにきこえるだけだ。二人はビールの酔いと疲れで、横になると同時に寝付いてしまった。         
 二日目の朝を迎えた。あまりの静かさに斗史は生活実感がわいてこない。

舞はもう起きて、浴衣に着替え「朝一番の風呂に行こう」と斗史をせかす。

斗史は、会社もないしゆっくり寝ていたかったが仕方なく起きた。

  露天風呂には、ぽっちゃりした三十歳位の男が一人入っていた。

斗史は浴槽の谷側に身体を沈めた。

昨日は薄暗くて良く見えなかったが、変化に富んだ景色が開けていた。

露天風呂の先は、V字型に切れ込んだ谷になっている。

谷の向こうは急斜面の山になっている。

紅葉の季節は終わり、山全体色あせた感じだ。

目線を稜線まであげると、朝の太陽の光が木々の間に輝いていた。もう少しすると、光は木々をのり越え、露天風呂に、そして谷全体に満ちあふれるに違いなかった。
 谷のこちら側は茶色の崖である。

崖は温泉に含まれる炭酸カルシウムが、長い年月をかけ結晶したものらしい。
「理由が分ればいいんだよ!」
突然声がする、斗史はびっくりして周りを見回す、ぽっちゃり男が一人しかいない。彼がしゃべったらしい、様子から斗史に対して言ったのではないようだ。

暫らくして、「はじめから、そう言ってくれれば良かったのに」と又突然の声、彼は谷の景色を見入っているように見える。少し心を病んでいるように見えた。

斗史は風呂を上がることにした。長湯は出来ないタイプだ。

約束の時間より早いが部屋に戻ることにした。

舞は長湯である。約束の時間より大分遅れて戻ってきた。 
 朝食に食堂へ向かう。

ほとんどの人は食べ終わったようで、居るのは老夫婦一組だけである。老夫婦は何も話しをしない、ただお茶を飲んでいるだけである。

静かで、質素な朝食であった。

  食事を終え部屋に戻る途中、掲示板の前で立ち止まる。

温泉で病気が治った経験談などが載っていた。

「温泉で治っちゃうんだ」と斗史は感心したように言った。そして、
「そういえば、露天風呂にちょっと精神を病んでいるような若い人がいたよ」

露天風呂で会ったぽっちゃり男を思った。
「ここに、うつ病にも効果があるって書いてあるから、そういう人かもね」
「なんか、俺たち場違いな感じだよな。ここは年寄りと病気の人が来るところなんだ」

「でも、斗史は今、会社のことで少し滅入っているから、ちょうどいいんじゃない」
斗史は病人扱いされ少し不機嫌になった。
「俺のは温泉で解決する問題じゃないよ」
「そうかな。早くコーヒー飲みたいわね、インスタント持ってきたから、部屋で飲もう」
舞は斗史に構わずどんどん歩いて行った。
 テレビを見ていた舞が、立ち上がり
「風呂に行こうかな。ここまで来て部屋でテレビ見ているのも馬鹿らしいでしょ。何処かに行く計画もないでしょ」

斗史は会社から逃げ出したかっただけで、何も計画などしていない。舞もそれは分かっていたのでそれ以上言わなかった。舞は入浴の準備を済ませて、
「どうせなら徹底的に入ろ。もとは取らなくちゃ。この温泉肩こりにいいみたいだし」
「舞の肩こり聞いたこと無いな」
「別に人に言うほどじゃないから。そう言えば斗史、パソコンで目が疲れると言っていたでしょ、風呂場の蛇口から出ている炭酸水で目を洗うといいみたいよ。じゃ先に行くね」
「そうか、俺もすることないし、目でも洗ってすっきり、露天風呂に入るとするか」
 朝の光が天窓より射し込み、湯気に煙る屋内風呂を必要以上に明るくしていた。

斗史は低い温度の浴槽に入る。
浴槽には、年配の坊主刈りと中年の営業マン風の二人が、浅い場所に横に並び、足を伸ばし、話し込んでいる。

しばらくして、斗史は二人の会話のパターンがどれも同じことに気付いた。

中年営業マンが聞く、坊主刈りが答える、中年営業マンが感心する、このパターンである。「お年は幾つですか」「七十五だよ」「若いですね信じられない、本当にお若い」。「今年は何本あげました」「七十九本だよ」「私は十三本です、すごい本当にすごい」、鮭釣りの話らしい。「車の中で一〇日間も疲れませんか」「別に疲れません、寝るだけですから」「タフですね、本当にタフですね」。

坊主狩りは駐車場に車を停め、車内で寝て温泉に入っているようだ。

坊主刈りは、あまり褒めあげられたものだから、下半身もまだ元気だなどと、陽の光が差し込む場所にはそぐわない話まで始める。中年営業マンの褒めあげはとまらない、身についている感じだ。斗史は会社でも似たような奴がいると思った。

うるさくなってきたので、露天風呂に行く。ぽっちゃり男が一人だ、対岸の山を見入ったように動かない。斗史は、ぽっちゃり男と離れた隅に身体を沈め、温泉水が創り出した斜面の景観を見ていた。

先程の中年営業マンが露天風呂に入ってきた、ぽっちゃり男に声をかける。
「そのネックレスは磁気ですか」
ぽっちゃり男は、ネックレスを外して手のひらにのせ磨くような素振りをし、中年営業マンの方は見ず山を見たまま、

「余り効きません、ブレスレットが効くのですが、着け忘れるのでこれにしています」
答えがかみ合っていない、
「何に効くのですか」中年営業マンはちょっと躊躇したように聞いた。

問いには何も答えない、気まずい空気が流れる。突然、
「そう言ってくれればいいんだよ!」
ぽっちゃり男が突然声を発する。

中年営業マンはびっくりして、少しずつ離れていく。
更に、「その方向で進めてみようよ・・・」
後はぼそぼそ声になり意味は分らない。

中年営業マンは静かに露天風呂を出て行った。
ぽっちゃり男はなにも無かったように、対岸を見ている。穏やかな横顔をしている。会社勤めの経験のなかで、何かが心に引っかかって、時々言葉となって発声しているように、斗史には思えた。
 待ち合わせまで大分時間はあったが、斗史は部屋に戻った。

窓の外に目をやる。配管の先の小屋から蒸気が出ている。蒸気は山肌に沿うように流れていた。斗史はぼんやり流れを追った。

それにしても、

『お前の首の上に付いているのはなんだ、重石か』

はひどい言い方だ。斗史は今でも顔が熱くなるのを覚えた。

自分の頭を重石とまで馬鹿にした部長に対する怒りもあったが、そこまで言われた自分に対する挫折感の方がより大きかった。

言われた事実は消えないし、考えても何も解決しない。早く忘れるしかないことは、斗史にも分かっていた。しかしどうにもならない。

気が付くと、風が無くなったのか、蒸気はまっすぐに上がっていた。

 ドアが開いて熱った顔で舞が戻ってきた。
「お腹すいた、昼飯に行こう」

そうめん半人前とおにぎり一個の定食を注文した。
「具合どうですか」

舞は、小柄なおばさんの横に座り声をかけた。

風呂場で知り合ったのか、親しそうだ。

小柄おばさんは「具合は少し良くなりました」と答えた。

そして、函館から娘が迎えに来たので今日帰ることや、ここに居ると具合が良いのでもう少し居て、プールで歩きたいことなどを、布巾でテーブルを拭きながら、ぼそぼそと話した。

そして小柄おばさんは、でもねと続けて、
「プールで歩きたいのですが、実は余り入っていないんです」と言う。

「何故ですか」と舞。

「私は背丈がないものですから、水位が肩まできてしまうんです。だから誰かがとなりを通過すると、波で身体が浮いてしまい、ファファとクラゲ状態になってしまいます。普通の人はなんでもなくても、泳げない私には一大事なの。歩かないで手すりにつかまっていればいいのですが、歩かなくては意味ないものね」

布巾を動かしながらの話はとどまることなく続いた。

温泉のプールは泳ぐのではなく歩行用のようである。午前中5、6人が一列になって歩いているのを目にしていた。
 満足にはほど遠い昼食を終え部屋に戻る。
「それにしても、舞は誰とでもすぐに会話が出来る特技を持っているね。その点、俺は駄目だな、どうも面倒くさいのが先になっちゃて」
「女は、何かを見つけて誰とでも話せるものなの、べつに私だけの特技じゃないわ」
「そうなのか、それにしても小柄おばさんの、クラゲ状態は笑っちゃうね」
「何言っているの、他人のこと笑えるの、斗史は会社でクラゲ状態でしょ」

斗史は、ムッとして「俺はファファなんかしちゃいないよ」
「上司がどうのこうの。仕事が合うの合わないのって。いつもファファしているじゃない」
舞は、斗史が小柄おばさんのクラゲ状態を笑ったことで不愉快になったようだ。

「あの人、足が悪くてなかなか治らないみたい。でも、ここに居る間は具合良くて、もう十年以上通っているらしいわよ」と舞。

斗史はクラゲ状態と言われたことの不快がまだ収まらず、黙っていた。

舞はちょっと言い過ぎたと思ったのか、話題を変えた
「風呂あがって何していたの、テレビ?」
「別に、人生いろいろ考えちゃってね」
斗史の言葉に力は無い。

「まだ怒られたことにこだわっているの、今までにもいっぱいあったじゃない、これからだってきっとあるわよ、その度に落ち込んでいたら、いつまでも前にいかないじゃない」
舞は、だんだんイラついてきたようだ。
「そんな言い方するなよ、俺は組織の中で上手くやれない人間のような気がするんだ」
「斗史はいつも弱気なことを言うんだから、組織で生きるのは、向くも向かないもないじゃない、当たり前のことでしょ」
「そうだな、俺弱気だよな」

舞は、斗史の落ち込んだ様子に戸惑ったのか、珍しく謝る、

「ごめん、勝手なこと言ったわね、斗史も大変だよね、ごめんね」
舞に同情されて斗史は、自分が急になさけない男に思えてきた、あわてて、
「頑張れニッポン、頑張れ斗史といくか」
震災後、頑張れニッポン 頑張れ東北のスローガンが連日放送されているためか、口をついて出た。舞も合わせて、
「そうよ、頑張れ斗史よ。一休みしたら温泉に行きましょう」
午後の露天風呂には誰も入っていない、
それにしても低い温度だ、治療とかの目的がなくてはとても入っていられるものではない。

斗史は対岸の色あせた紅葉をぼんやり見ているうちにうとうとしてきた。
 何人かが話している気配に目が覚めた。
階段の中ほどで、警察官らしい男二人と宿の従業員と思われる女性が話し合っている。話の内容は聞き取れないが、何か事件でもあったようだ。しばらくして居なくなり、谷川の音だけが聞こえる元の世界に戻った。
 バサッと何かが落ちる音で目が覚めた。大きな枯葉が目の前に浮かんでいる。谷を強風が吹きぬけている。少しの間に天気が急変したようだ。雨を呼んでいるのかもしれない。
紅葉を終えた枯葉が、風に乗って上空に舞い上がっている、まるで大量の蝶が一斉に舞い上がったようだ。宿の屋根を越えていくもの、上空高く見えなくなるほどあがっていくもの、露天風呂に飛び込んでくるもの、
様々である。

斗史は浮かんでいる枯葉の何枚かを手に取る。虫に喰われて穴だらけの葉もあれば、まったく喰われずに原形のままのものもある。

「枯葉様々、人間も様々か」斗史は分けのわからないことをつぶやいた。

余りに低い温度に満足できなくなり、屋内の風呂に移ることにした。
湯治客らしい年配の二人が話している。
「何時ごろなの」
「十一時ごろだな」
「その時居たの」
「ああ、俺ともう一人で引っ張り上げたよ」
「何で気がついたの」
「一緒に来ていた人が騒いだからさ、なんでも、二人で来て最初に一番温度の高い浴槽に入ったらしいよ。先に上がった人が、連れがなかなかあがってこないので、様子を見に戻ったら浮いているのを見つけ大騒ぎだよ」
「あんな温度の高いところに最初に入るなんて無茶だよな」
「そうだよな。それにしても、突然ワーワー騒ぎ出したんでビックリしたよ。俺たちが行ったら、連れを引き上げようとバタバタしていてさ、俺たちも慌てて浴槽に入って、皆で外に出したのさ。でも、もう見た感じでは死んでいるようだったけどね、かわいそうだったな」
先程の警察官はこれだったのだ。
「幾つぐらいの人だったのですか」斗史が風呂で口を聞いたのはこれがはじめてだ。
「六十七才とか、連れの人が言っていたな」
「心臓マヒですかね」と斗史
「連れの話では特に持病は無かったらしいが、血圧は少し高かったようだよ」
「そんなに簡単に死にますかね」
斗史は、この人が分かるはずもないのに、つまらぬことを聞いたと思った。

もう一人の男が独り言のように、前と同じことを言った。
「あんな熱い浴槽に、最初に入るからだよ」
「俺も、湯治に来て死体を引き上げことになるとは思わなかったな。そういえば総合病院の看護婦が言ってたけど、ここで湯治客が死んだことは今までも時々あったらしいよ。俺がこの温泉に行くと話したら『気をつけてね』と心配されちゃったもの」
「そうか、ここで具合悪くなると、総合病院に運び込まれるから知っているんだ」
「だけどさ、ここは元々具合の悪い人が来ていて、それも医者に見放されたような人も結構いるから、具合悪くなったり、死ぬことがあっても、当然といえば当然だよな」
「そうだけど、彼は別に不治の病ではないし、持病もないというのに、分からんもんだね」
斗史は、二人の話を遠い世界の出来事のように聞いていた。

人の死が特別なことではなく、意外と簡単なことだとも思った。

少し気持ち悪くなってきた。

いつもより大分長湯になっていた。あがる前に死んだ人が入っていた浴槽に、足をちょっと入れてみた。かなり熱い、斗史にはとても入れない温度だ。      
部屋に戻ると一気に疲れを感じた、敷いたままの布団にゴロリと横になる。
 「寝ているの、男湯で死んだって本当」
舞の声で目が覚めた、ぐっすり寝たようだ。
「ああ、警察も来ていたよ」
斗史は風呂で聞いた話しをした。そして、
「あんな熱いところに、来た早々入るなんて、皆も言っていたけど無茶だよ。言っちゃ悪いけど自業自得じゃないのかな」
斗史は、自分なりの結論を言ったつもりだったが、舞は違うことを言った
「それは、亡くなった人に失礼よ、いつも熱い風呂に入っていて、たまたま今回こういう事になったかもしれないでしょ。これがその人の運命なのよ」

舞は自信たっぷりだ。
「運命ね、運命かもしれないな」
斗史は自業自得より、運命の方が気持ちの納まりが良いと感じた。

 食堂の入り口で「今日の夕食はお寿司ですよ」と声を掛けている。

毎月一日は特別な料理が出るそうで、今月は握りずしということらしい。

ネタは普通に見えるが、月一回の特別料理と言われると立派な食事にも見えてくる。食堂には何組かの年配夫婦が食べている「美味しいね」「久しぶりね」

などと満足げな様子だ。
二人は、食べる気分になれなかった。
 「人が亡くなったのに、雰囲気まったく変わらないと思わないか」
食後、部屋に戻るなり斗史は納得いかないように舞に話しかけた。

舞も同調したように、
「そうね、ここでは、死がそんなに特別なものではないということかしら」
「お寿司も皆結構楽しそうに食べていたし、他人の事は、関心ないということかな」
「年を取るとそうなるのかも、きっとそれが普通になるのよ、私たちには分からないことよ」舞は断言するように言った。
 「寝る前にもう一風呂浴びよ」と舞は風呂に行った。

斗史は部屋でテレビを見ることにした、もう風呂に飽きていた。

 舞は大分遅くなってから戻ってきた。

斗史が二重窓の間から缶ビールを取り出し茶碗に注ぐ、
「では乾杯、それにしてもずいぶんゆっくりだったね」
「乾杯。風呂で鮭トバもらっちゃった、これつまみに最高。あの人は斗史が話していた鮭七十九本釣った人の奥さんだと思うわ、鮭トバもご主人が釣ったのを、奥さんが自分で干して作ったそうよ。そう言えば、ご主人は、倒れて歩けなくなったことがあったそうよ」
斗史は、中年営業マンに褒めあげられて、得意顔の坊主狩りを思い出した。
「エッ、風呂では元気が自慢みたいで、歩けなかった人には、とても見えなかったな」
「病気をしたから、なお更元気を自慢したくなったのかもしれないわ。この温泉にきてから良くなったけど、それまで大変だったらしいわ。幾つかの病院で診てもらっても、原因は分からないし、良くもならなかったですって。それで自分で調べて、いろんな温泉を回り、この温泉が良いことをみつけたそうよ」

「ここの温泉で実際効いた人もいるんだ。そう言えば、部屋に置いてある冊子に書いてあったけど、ここは特に腰の悪い人にはバッチリらしいよ」
「本当、そうだお父さん、腰が痛いと言っているから、薦めてみよう」
「舞がお父さんに何かしてやろうなんて、はじめて聞いた気がするな」
「そうかもしれない。
お父さんのことはよく知らないし、関心もなかったから」
舞は自分の口から父について、言ったことに不思議な気がした。
「さあ、寝ようか」言い終わると同時に斗史は寝息をたてている。

舞は、口の中で「お父さんか」と言ったまましばらく暗闇を見ていたが、目をつぶるまで長くはかからなかった。
 帰る日の朝を迎えた、舞は朝から元気だ。
「さあ最後の風呂に入ろう、先行くね」
「ようし、俺も行こう」斗史も風呂に向かう。
風呂には六十代の、頭のてっぺんがカッパ禿の男が一人入っている。

何処から来たのと声を掛けてきた、札幌と答えると、
「そう、札幌には転勤で三年住んだことがあります。懐かしいですね。そうはいっても大昔の話ですがね、今は浦安です。以前はディズニーランドで有名だったけれど、三月の大震災から液状化の街で有名になっちゃったけどね」

話好きなのか一人で話している。
今度は「どんな仕事しているの」と聞いてきた。

立ち入ってくるようで嫌な気はしたが、風呂には入ったばかりで出るわけにはいかない、仕方ないと覚悟を決めた。

こんなことで覚悟するなんて大げさで、馬鹿げていると分かっているのだが、性格だからどうしようもない。

「コンピュータ関係です」と答える。

「そうですか、大変ですね、私も会社でコンピュータのシステム開発の仕事をやっていたから分かるな、バグが出るたびに冷や汗をかいたのを思い出すな」

カッパ男はうれしそうな顔になった。

「バグは今でも同じですよ」と答えたら、

「仕事は楽しいですか」ときた、「まあまあです」と適当に答えた。

斗史は、仕事が楽しいど考えたことは無かった。

仕事は仕事で楽しみの対象ではなかった。
もう風呂から上がりたくなってきた。
「まあまあならいいですよ、私なんか仕事がきつい時、出勤途中駅の地下通路に、ホームレスが新聞を読んでいたり、酒を飲んでいるのを見て、この人と替われたらいいな、と何度も思いましたね。コンピュータはなんでもないときはいいけど、問題が起きると本当に大変だよね」

カッパ男は、斗史の反応など関係ないように話し続ける。
「でもね。大変だった思い出しかなかったけど、最近それが満足感というか、充実感みたいなものを、感じるようになってきましたね。時間が経ったのか、歳を取ったのか分かりませんが」
「皆そうなりますかね」
斗史はどうでもよくなっていたのに、つい話しを合わせて、変なことを聞いてしまった。会社のことがどこかに引っかかっていたのだ。
「どうですかね、皆かどうか分かりません」
斗史は、カッパ男の誠実そうな感じと、同じ職業に親しみのようなものを感じはじめた。
「仕事が大変だったとき、どうされました」
斗史は、これを聞いたら上がろうと決めた。
カッパ男はちょっと考え
「昔、つらいことがあった時に、そこから逃げ出してしまってね。そしたら、それが挫折感となってトラウマになっちゃってね。それからは、どんなにつらくても逃げることだけは絶対しないと決めました。それが支えになったような気がします」

教訓話になってきたのを、カッパ男自身が気づいたらしく、
「コンピュータの仕事なんて懐かしくて、つまんないこと言ったね、すいませんね」
「いいえ、こちらこそ有難うございました」

斗史はここに来て、はじめて会話らしい会話をしたと思った。

カッパ男が又話しはじめる。
「バグといえば、私の頭が大地震以来バグっちゃってね」

斗史には何のことか分からない。
「えっ、頭がですか」
「ええ、地震の揺れでめまいを起こしてから、めまいが止まらなくなってしまってね」
「大変ですね、それでここに来たのですか」
「そうですが、なかなかスキッとはいかないですね、それではお先に」

なんのことはない、カッパ男が先に上がってしまった。

少し遅れて斗史も上がった。

 めずらしく斗史と同時に、舞も戻ってきた。

部屋に入るなり
「笑顔健康法知ってる」と舞。

そして、返事を待たず、立て続けに話しはじめた。

温泉で何か仕込んだらしい。
「健康には笑い顔が良いらしいわ。人間笑い顔をしている時は、脳から健康に良い物質が出るんだって。だから笑う気分じゃないときでも、無理に笑顔を作ると、脳が騙されて健康に良い物質を出して、本当に笑ったと同じ効果があるそうよ。だからいつも笑顔を作っていれば、健康に良いということよ」
「笑う気分でないのに笑顔は難しそうだね」
「訓練しなきゃ、どおこの笑顔」
舞は笑顔を作ろうと口元を横に広げた。
「ダメだよ、口だけ笑っても目は真剣だもの、変な顔だよ」
「そうね、目も笑わなくてはね、ほら斗史も笑顔、笑顔」

斗史も仕方なく笑顔をつくる。
「そうだ、斗史会社で調子悪いでしょ、これからは、自分は優秀だ、自分は出来るんだ、と自分に言い聞かせればいいんじゃない、それで脳を騙すのよ」

と舞は作り笑顔のまま話す。
「そんな簡単なことじゃないよ」
「それがいけないのよ、ダメだダメだと言って、辛気くさい顔をしているから、なおさら上手くいかないのよ」

舞は良いことを言ったと思ったのか、斗史にしつこく同意をもとめてきた。斗史は「そうかな」と浮かない返事だったが、舞が自分のことを心配して、元気づけようとしていることだけは分かった。
しばらく二人で作り笑顔競争になった。
 朝食を終え、宿代を払い帰途についた。
駐車場から山道に車を出す。山道は、昨夜の強風によるものか、落ち葉の吹き溜まりがあちこちにある、斗史は慎重にそれを避けながらハンドルを操作する。
「温泉、結構疲れたね、舞はどうだった」
「私はそうでもないわ。それより湯治場にはびっくりしたわね。でも、いろいろあって結構面白かったわ。美肌になったかもしれないし」
「俺だって湯治場にはびっくりしたよ。迷い込んだって感じだったね。でもさ、掲示板に書いてあったように、温泉で本当に治るのかな」
「治ると信じれば治るんじゃない。笑顔と同じで信じなきゃだめよ」

と舞は作り笑いをしながら言った。

「そういえば斗史、会社の事ふっ切れたの」
「会社か、分からないな。でも、やるしかないよな」

「そうよ、今という現実を大切に、やるしかないのよ」

 山道は国道にぶつかる所で終わりだ。

舞は携帯電話を開けて、メールを操作する態勢に入っている。

左にハンドルを切り、国道に出る。

舗装された真っすぐな道が視界に入ってきた。

斗史は、深く息を吸って「ふ~」と長く吐いた。
                 終り