クリスピアン・セント・ピーターズという名前から聡明な響きを感じます。顔を見ると少しだけジョン・レノンに似ているようです。しかし似ているだけで、この二人に接点があったかどうか、多分なかったと思うのですが、二人の共通する点はイギリス人、これに限ります。改めてクリスピアンの顔を見ると、やっぱりジョンには似ていないように見えてくるのでした。お分かりの通り、別人です。

 レコーディングにジミー・ペイジが参加したこともあるとか語られるクリスピアンですが、いくらペイジの名を借りたとて彼が有名な存在になるわけではなく、知る人ぞ知る存在と言わねばなりません。第一、英米ともにヒット曲が多くはないのです。第二に、と言いたいのですが、これ以上知ることがないため、勝手ながらここで打ち切りです。

 クリスピアン・セント・ピーターズのヒット曲といえば、「You Were On My Mind」と「The Pied Piper」です。ウィキペディアのディスコグラフィーを見ると、「You Were On My Mind」がイギリスで1965年11月に発売され2位、アメリカでは1966年2月に発売され36位。次に「The Pied Piper」が英米ともに1966年5月にリリースされ、イギリスでは5位、アメリカでは4位となっています。次に「Changes」がリリースされていますが、こちらは英47位、米57位と、大したヒットにはなっていません。一旦「Changes」の存在を無視し、「You Were On My Mind」と「The Pied Piper」二曲の英米のヒットの経緯を記します。本国イギリスではどちらも同じ規模のヒットです。アメリカでは、「You Were On My Mind」が新たなイギリスの歌手に注目する契機を与え、「The Piped Piper」で本格的にその存在が認知される、といったシナリオに出来上がっています。「You Were On My Mind」が36位というまずまずのヒットとなっているのは、彼が完全に脚光を浴びていなかったからとも言えますが、前年65年にアメリカのグループ、ウィー・ファイヴが歌ったヴァージョンが3位という大ヒットとなっており、二番煎じ故の結果と判断するのが妥当でしょう。考えるほど、英米ともにもっともなヒットの仕方をしています。しかし、この二曲の実情は、英米とで異なる物語を作っているのです。

 クリスピアン・セント・ピーターズは、「You Were On My Mind」の前にも二枚シングルをリリースしていますが、いずれも英米ともにノン・ヒットです。彼の転機はやはり「You Were On My Mind」です。先述の通り、アメリカでこそウィー・ファイヴがヒットさせた曲ですが、イギリスではヒットしていません。アメリカでヒットした曲が、イギリスで別人が歌ってこれがヒットするということは珍しいことではありません。同じ英語圏といえど、アメリカは海の向う。イギリス人にとっては、親近感を求めるのでしょう。クリスピアンの「You Were On My Mind」のリリースおよびヒットにも、そういう事情が含まれているはずです。カヴァーされた「You Were On My Mind」ですが、ウィー・ファイヴのヴァージョンとはアレンジがかなり違います。私はビルボード・チャートを集中して聴く人ですから、ウィー・ファイヴのヴァージョンを先に知ったのですが、もしその頃に同時にクリスピアンのヴァージョンを聴いたなら、きっと後者を気に入ったでしょう。それなりに魅力あるカヴァーですので、イギリスで2位という大ヒットとなるのも不思議ではありません。一方、アメリカでは36位……となるはずなのですが、1966年当時、クリスピアンの歌う「You Were On My Mind」をビルボード・チャートで確認したことはありません。つまりノン・ヒットです。ウィキペディアでは確かに36位と記されていたはずです。ウィキペディアが信用ならないのは全世界共通ということでしょうか。しかしウィキペディアの記述は必ずしも間違いではありません。この真相は後ほど。

 大ヒットした「You Were On My Mind」に次ぐシングル「The Pied Piper」は、前作のフォロー・アップ、言ってしまえば二匹目のドジョウです。この二曲のアレンジはよく似ています。しかしやはり魅力あるアレンジですし、そもそも「The Pied Piper」自体が良い曲なのですから、これもイギリスで5位のヒットとなります。私がクリスピアン・セント・ピーターズの名を知ったのは「The Pied Piper」で、この曲がビルボード・チャートを上昇したためでした。「The Pied Piper」は、イギリス人にとっては(悪く言えば)二番煎じですが、アメリカでは初の感触です。その新鮮さが、ビルボード最高4位という快挙を得たのでしょう。先ほど、ウィー・ファイヴとクリスピアン・セント・ピーターズの歌う「You Were On My Mind」を同時に聴いたなら、きっとクリスピアンのヴァージョンを好むだろうと書きました。しかし、「The Pied Piper」の方を先に知った私にとっては、「You Were On My Mind」の方が二番煎じに思えるため、自然とウィー・ファイヴの方を選んでしまうのでした。

 「The Pied Piper」は、前作「You Were On My Mind」に追随するどころか、勝っていると思います。より洗練されている感触があります。比較すると前作の方が輪郭がはっきりしていないところがあるのです。元々「The Pied Piper」はThe Changin' Timesというアメリカのグループによって1965年に歌われた曲で、最高87位を記録しています。私はビルボード・チャートを毎週40位までしか確認しませんので、87位という結果に終わった原曲を知るのは後の話でした。聴いてみると、いかにも1965年といった風のフォーク・ロックで、ヴォーカルもきっとディランに影響されているのだろうと微笑ましくなる曲です。

 クリスピアンのヴァージョンは、「You Were On My Mind」のアレンジを模倣しているのは確かです。しかし、それに加えて、チェンジン・タイムズによる原曲で用いられた笛の音にも影響を受けています。タイトルがそのまま、伝承で有名なハーメルンの笛吹のことを指しているのですから、笛の音が聞こえるのは当然でしょう。歌詞の内容は伝承のように怖くなく、「僕についてきて」と大変ロマンあるものに転じています。こういうアイデアがヒットを招くのでしょう。クリスピアンのヴァージョンは、ヒット性のある「You Were On My Mind」のアレンジと、原曲に秘められた魅力を最大限引き出して、見事に融合したものだったのです。静的なヴァースと動的なコーラス、ここがこの曲の美点です。何度も聴くと、後半がやや繰り返しすぎているようにも思えますが、気分を高揚させてくれるのは確かです。最後に潔く終わってくれるところも好ましいです。 

 「The Pied Piper」がアメリカでヒットしていた時期は、1966年の7月から8月にかけてです。この頃チャートの上位には、トロッグスの「Wild Thing」、トミー・ジェイムズ&ザ・ションデルズの「Hanky Panky」、サム・ザ・シャム&ザ・ファラオーズの「Lil' Red Riding Hood」といった馬鹿げた曲が占めていました。一曲だけなら、こういう曲も面白いよね、くらいで済ますこともできますが、三つも揃われるといい加減嫌気が差します。そんな中で「The Pied Piper」は良い清涼剤になってくれました。

 大変すばらしい曲を歌ってくれたクリスピアンでしたが、次の「Changes」は先述の通りさほどヒットしていません。良いような気もするのですが、手放して褒められないところがあります。クリスピアンの裏声が気色悪く聴こえるとかそういう原因でもあるのでしょうか。いえ、決して悪いというものではないのです。ただ「The Pied Piper」のような決定的な、フックとなるものがなかった。ヒットのポテンシャルが低いようです。三番煎じをやらなかったところは評価できるかもしれません。

 イギリスでも大して変わりませんが、アメリカにおけるクリスピアンの人気は一瞬でした。「The Pied Piper」がヒットしたときは、今後もヒット・チャートを賑わしてほしいという微かな望みもあったのですが、その気持ちも時が経つにつれて忘れていきました。そして完全に忘れ去っていた1967年7月22日付のチャートに、再びクリスピアン・セント・ピーターズの名が現れたのです。ヒットした曲は、なんと一年以上前に発売されていた「You Were On My Mind」なのです。なぜ今更?と思いました。確かにウィー・ファイヴは、あれ以降ヒットが続かなかったため、グループもヒット曲も忘れられていておかしくはないです。だからといってクリスピアンが過去に歌ったヴァージョンがヒットする理由になるのでしょうか。きっと何か事情があったはずです。クリスピアンの歌う「You Were On My Mind」は、ビルボード・チャートの36位に二週いただけで、すぐにトップ40から消えました。クリスピアンに興味のない人にとっては、また有象無象の曲が出てきた程度にしか思わなかったでしょう。しかし少しばかり彼のことを知っていた私にとっては、ひどく奇妙な現象に見えたのでした。忘れられた頃に突然やってきたクリスピアンでしたが、その後ビルボード・チャートに顔を出すことは二度となく、アメリカン・ポップは何事もなかったかのように動いていくのでした。

 ウィキペディアの記述が必ずしも間違っていないと書いたのはこういうことです。イギリスでは順番通り発売され、順番通りヒットした。アメリカでは順番通り発売されたけれど、ヒットした順番は逆だった。これが真相です。しかし無機質な表で表すと、この順序が伝わらないのです。そういうわけで、もしこの事情を御存じない方がいらっしゃいましたら、是非記憶に留めておいてください。得もしませんが損もしないでしょう。

 

 私が所持しているクリスピアン・セント・ピーターズのCDは、これ一枚です。The Complete Recordingsと書いてあるように、二枚組の大容量です。ちゃんと通して聴いたことはないです。私にとってこの人は、やはり「The Pied Piper」一曲に尽きます。

 

 2019年10月時点、YouTubeでこの曲を検索すると、クリスピアンのライヴ映像が見られます。これはイギリスで毎年行われていたNMEのショーです。NME Poll-Winners' Showで検索すると、主にビートルズに関する情報が出てきます。映像は66年のものです。ビートルズは64年から66年まで出演していました。それはともかく、クリスピアンの歌唱ですが、恐ろしい音痴です。最初別人がふざけた歌っているのではないかと思ったほどでした。この曲のライヴ・ヴァージョンが見られることに喜んだ自分が滑稽に思えてきます。こんなに音を外せるものなのでしょうか。英米でヒットしていたのですから、間違えることの方が難しいほど歌っていそうなものです。ちゃんと聴いてみると、コーラスの「hey, come on babe」のところはある程度音程がとれています。この曲のヴァースは低い声で囁くのでして、そこがこの曲の魅力でもあるのですが、ひょっとするとクリスピアンは低音になると不安定になるのかもしれません。それにしても不自然な音程ですが。改めてレコーディングされた方を聴いてみると、とりあえずピッチのいい歌手ではないのでしょう。レコードではそういう不安定さも、歌詞の純真さを表していたのかなと、好意的に書いておきたいです。どんなにライヴでの歌唱が不安定だろうと、私はクリスピアン・セント・ピーターズが歌った「The Pied Piper」が好きなのですから。

 レン・バリーという名が1965年にビルボード・チャートに登場したとき、また一人の新人が現れたと思いました。「1-2-3」という、簡明で忘れようのない曲名。イントロの力強いビート。そんな曲がチャートを急上昇するのを見て、心が躍る気がしました。サウンドは当時隆盛を極めていたモータウンを模したものです。レン・バリーなる男性の歌声も、黒人の姿を連想させ、これもやはりモータウン風。モータウンにありがちな、白人的な黒人のサウンドを巧みに再現しているものでした。しかし後に私は、レン・バリーの正体が、黒人的な白人(つまり白人)であったことを知るのでした。そして、彼が元ダヴェルズのリード・ヴォーカルだったことも同時に知ることになります。

 60年代前半、カメオ/パークウェイなるレーベルが、アメリカン・ポップを賑わしていました。カメオとパークウェイという二つのレーベルから、いくつものヒット・シングルが生まれていたのです。私は当初、カメオとパークウェイが同一のレーベルとは知らずにいましたが、真相を知ったとき納得しました。どちらのレーベルも、聞こえるドラムの音が同じだったからです。カメオ/パークウェイは、本拠地がフィラデルフィアだそうです。ハリウッドで活躍していたハル・ブレイン、アール・パーマーといった力強いドラムを聞かせてくれるドラマーとは異なる、非常に軽い音のドラムが、カメオ/パークウェイのサウンドの特色でした。軽い音というのは、エンジニアの問題が多分にあり、決してドラマーに原因があるとは言えません。また、軽い音だからといって決して悪いのではなく、名も知らぬドラマーの演奏は、丁寧で安定したものです(フィラデルフィアですから、録音はニューヨークでしょう)。

 今でこそ私のカメオ/パークウェイに対する印象は良いものになっているのですが、このレーベルが最も繁盛していた頃は、正直好きになれませんでした。レーベル内の最大の稼ぎ頭だったであろうチャビー・チェッカーも、今でこそ好意的に聴くことができますが、売れていた当時は「またチャビー・チェッカーかよ……」と少しうんざりしていました。出すシングルが必ずヒットするのですから、「またチャビー・チェッカーかよ」が永遠に続くかのようでした。チャビー・チェッカーと(やや劣るかもしれないが)同等のヒットを飛ばしていたボビー・ライデルは、今も苦手です。「I'll Never Dance Again」と「Forget Him」は好きですが、それ以外のほとんどは凡庸な曲にしか聴こえないのでした。レーベル内の代表的存在を好く思わないのですから、基本的にカメオ/パークウェイに対して良い印象を抱くことは少ないのです。良いと思うのは、チャビー・チェッカーでもボビー・ライデルでもなく、(この二人と比較すると)二番手の位置にいる人たちの曲でした。それはオーロンズであり、タイムズであり、そしてダヴェルズでもありました。このダヴェルズにレン・バリーがいたのです。

 ダヴェルズの最初のチャート・インであり、最初のトップ10ヒットは、1961年の「Bristol Stomp」で、これは2位まで上昇しました。1位を阻んだのは、ディオンの「Runaround Sue」で、同系統の曲がチャートの上位にいた、といった趣です。カメオ/パークウェイは、ボビー・ライデルこそ白人ですが、他の歌手は大抵黒人であるため、ダヴェルズもきっと黒人だろうと思っていました。リード・ヴォーカルの歌唱がどうしても黒人にしか聞こえなかったのです。後に写真を見て、全員が白人だったことに驚きました。黒人だと思ったら白人だったというケースは、ほかにジョニー・プレストンを思い浮かべます。「Running Bear」のヴォーカルがどうしても黒人に聞こえたのでした。逆にジョニー・マティスを白人だと思っていたこともあります。後年のジョニー・マティスの歌唱ではなく、初期の「It's Not For Me To Say」「Chances Are」で聴かれる歌声が、白人を思わせたのでした。

 ダヴェルズのヒット曲は少なく、1963年に「You Can't Sit Down」が、3位とこれまた大ヒットした他に、目立った曲はありません。カメオ/パークウェイは、チャビーとボビーが例外であって、他の歌手はそうヒットは続かないのでした。もっともそれが普通なのですが。ダヴェルズにいたっては、「Bristol Stomp」と「You Can't Sit Down」の間にはややブランクがあり、よくぞ忘れられずもう一曲売れたものだと思います。

 1964年のブリティッシュ・インヴェイジョン以降、チャビー・チェッカーもボビー・ライデルもヒット・チャートの世界を退きます。その他のカメオ/パークウェイ所属の歌手たちも、おしなべて退場します。ダヴェルズも同様で、レン・バリーもグループを脱退します。私はてっきりブリティッシュ・インヴェイジョン以降に脱退したと考えていたのですが、どうやら63年末のようでした。どういう理由でダヴェルズを抜けたのか詳しく知りませんが、結果論としては良い判断だったのではないでしょうか(レン・バリーのベスト盤のライナーには、グループを去る際、誰も止めようとしなかったと書かれてあるため、メンバー間の関係性の悪化かなと思います)。

 レン・バリーは脱退後、カメオからシングルを二枚リリースしますが、過去のしがらみから逃れるため、マーキュリーから一枚だけシングルを出します。マーキュリーとの関係は正式な契約ではなく、彼はすぐにデッカへ移籍します。これは二人のソングライター・チーム、ジョン・マダラとデヴィッド・ホワイトの尽力によるものでした。この二人の最初の成功は、1957年の「At The Hop」でした。ダニー&ザ・ジュニアーズが歌ったもので、このグループのメンバーにはデヴィッドがいました。この二人はチャビー・チェッカーの1961年の「The Fly」というヒット曲も提供しており、カメオ/パークウェイとは縁のある存在でした。これらのほかに、彼らが作曲した代表作は、レスリー・ゴアの「You Don't Own Me」で、この曲はビートルズの「I Want To Hold Your Hand」さえなければ1位になっていた曲でした。こうした曲を並べれば分かる通り、この二人は波乱の50年代後半~60年代前半を闊歩した、実績あるソングライターです。レン・バリーのデッカ時代は、ジョン・マダラとデヴィッド・ホワイトの作曲およびプロデュースによって展開されるのです。

 デッカ第一弾シングルは「Lip Sync (To The Tongue Twisters)」(1965年5月)ですが、これはビルボードでは最高84位でした。私は後に購入したベスト盤で初めて聴いたのですが、特に気に入っているわけではありません。聴き終わる度に忘れそうです。

 特筆すべきなのは、やはり第二弾シングルの「1-2-3」でしょう。「Lip Sync」のセールスが不発と分かると、翌月の6月に即座にリリースされました。冒頭でモータウン風のサウンドと書きましたが、1965年は特にモータウンの模倣がなされていた年だったのです。ジャッキー・リーの「The Duck」や、ニュービーツの「Run, Baby Run」、4シーズンズの「Opus 17 (Don't You Worry 'Bout Me)」といった曲は、モータウンの香りが顕著にすることで、私の印象に残っていました。ここまで書いて「Opus 17」は1966年の曲だったと気づきましたが、要するにこの時期までは、モータウンを真似することがヒットの手段になり得たのです(だからと言ってどこもかしこもモータウン化したわけではない)。1964年から66年までのモータウンは、これ以上ないほどに栄えていました。

 レン・バリーの「1-2-3」も、サウンドは明らかにモータウンを意識しているのですが、決して下手な真似事にはなっていません。フォー・トップスの「I Can't Help Myself」の、有名なイントロのリフレインをパクるような安易な真似はしていません。こう言うと、先述の「Run, Baby Run」は有罪になってしまいます。貶すつもりはありませんが、私にとってニュービーツは「Bread And Butter」であって、「Run, Baby Run」のヒットは余生か何かに見えます。話を戻しますが、「1-2-3」はまるでホランド=ドジャー=ホランドが書いた曲のようでありながらも、モータウンにはない個性もいくらか表れていて、そこが面白いと思いました。どういう個性なんだと言われると少し困惑します。しかしあえて言うなら、スプリームズやフォー・トップスに提供された曲には分かりやすい「切なさ」がある一方、「1-2-3」は明るいようでいて「哀愁」も感じられるということでしょうか。「Where Did Our Love Go」や「I Can't Help Myself」を聴いてみると、いかにもHeartacheといった感じがするではありませんか。歌詞なんかいかにもそうでしょう。一方で「1-2-3」はイントロのビートがまず気分を上げますし、歌詞も「さあ恋をしよう、恋するなんて簡単さ」といった簡単なものです。それなのに、どこかHeartacheに通じるものを私は感じます。ご理解いただけませんか? 当時のアメリカ人は、私の感じた微妙な情緒を理解したのかどうか、それは分かりませんが、とにかく「1-2-3」を喜んで迎え、ビルボードで最高2位を記録しました。1位はスプリームズの「I Hear A Symphony」で、モータウンの模倣は、本家モータウンが征す、といった具合でしょうか。とはいえ大ヒットには違いありません。ビルボードでこそ2位のこの曲は、キャッシュボックスでは1位に輝いています。私はキャッシュボックスをあまり見たことがないので、同じアメリカン・ポップについて取り上げているはずなのに、よそ事のように思えます。

 さて、ここまでのレン・バリー・ストーリーは大いに結構なのですが、問題はここからです。大ヒットを出したのに引退するなんて勿体ないことをする人はこの世界にはいないわけですから、当然次なるシングルが出ることになります。待望のセカンド・シングル、それこそが「Like A Baby」。作曲、プロデュースはやはりマダラ=ホワイトのコンビです。曲の内容も前回に引き続き、モータウン風です。タイトルに「Baby」とありますが、前作「1-2-3」の歌詞でも随分と「baby」が使われていたのですから、大胆な流用です。こんなことを言うとあまり褒めているように聞こえませんが、私は「Like A Baby」がかなり好きでした。「1-2-3」よりも気に入っているのではないでしょうか。大ヒットした「1-2-3」と曲調もテンポもかなり似ており、よくある二匹目のドジョウというものですが、それでも簡単に馬鹿にしていい出来ではありません。「1-2-3」の歌詞の内容が快活であることは、先にも述べましたが、こちらは感傷的で、そこに情緒があります。メロディーも大変好きです。もし歌唱力があって、この曲を難なく歌えたなら、さぞかしいい心持ちだろうと思います。それは「1-2-3」でも同じですが。

 ヒット・チャートの世界において、二匹目のドジョウ(Follow upと言おう)は、一匹目と比べて大人しいヒットとなることがほとんどです。そうは言っても、大抵良い数字を記録するのです。思い付く限り書きましょう。ボビー・ヴィーの「Run To Him」(2位)と「Please Don't Ask About Barbara」(15位)。ニール・セダーカ「Breaking Up Is Hard To Do」(1位)と「Next Door To An Angel」(5位)。ニーノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンス「Deep Purple」(1位)と「Whispering」(11位)。ニュービーツ「Bread And Butter」(2位)と「Everything's Alright」(16位)。ナンシー・シナトラ「These Boots Are Made For Walkin'」(1位)と「How Does The Grab You, Darlin'?」(7位)。ベン・E・キング「Spanish Harlem」(10位)と「Stand By Me」(4位)(←勝ってる!)……このように、チャート・トップあるいは同等のヒットを飛ばした後のシングルは、兄の威光を以ってチャートの世界を健闘するものです。これらの実例を何度も目にした私ですから、「Like A Baby」も必ずトップ20に入るだろうと思っていたのです。ところが結果としては27位。これにはあれ?と思わずにはいられませんでした。どう聞いてもこれ以上にヒットするポテンシャルがあると判断できたというのに。あれこれ考えてみると、曲調が前作と同じであること、それから前作よりも歌詞が憂鬱だった、といった当たり前のことが原因になってしまいます。それはそうとしても、納得できないところがあります。

 レン・バリーは「Like A Baby」後に、有名なウェスト・サイド・ストーリーの「Somewhere」を歌い、これも26位と「Like A Baby」と同じ規模のヒットとなりました。この曲の出来も結構だと思いますが、個人的にはあまり好んでいません。なんだか当たり前の曲のように聞こえたのです。これがトップ20に届かないのは納得できました。しかしこの次のシングル「It's That Time of Year Again」は良く出来ていると思います。しかしこれは91位という結果に終わりました。以降、レン・バリーのヒット曲は永遠に絶えます。

 ヒット・ポテンシャルのある曲を続けて出すことができたのにも拘わらず、「1-2-3」の大ヒットでほとんど終わってしまったのは、意外でしかなく、チャートの世界とは予想外の連続ばかりと思い知らされます。好きな曲が思うように上がらず、どうでもいい曲に限って何週も残るものです。私が納得してもしなくてもお構いなしです。

 冷静に考えてみると、モータウン・スタイルは長続きしないものであると言えます。先述のニュービーツにしても、「Run, Baby Run」が最後のヒットとなりました。4シーズンズはまだまだ頑張ってヒットを出しますが、流行を追い続けるグループですから、モータウン・スタイルは早々に捨て去り、フォーク・ロックとかサイケデリックとかに挑戦するのです。本家であるモータウンですらも、次第にサイケデリックのようなサウンドになっていくのです。そもそも持続してヒットを出せるものではないのです。考えてみれば当たり前で、この激動の時代に、何度も同じことをやっても成功は繰り返せないのでした。

 レン・バリーは、一応ワン・ヒット・ワンダーと言えるでしょう。しかしダヴェルズの頃のヒットがありますから、合わせると三曲。最初のヒットから年数を言うと、1961年、63年、66年。なんというか、忘れた頃に出てきて、急にいなくなる具合です。しかも出てくる度にトップ3。これはこれで稀有な存在です。

 

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 私が持っているレン・バリーのCDは、上のベスト盤です。デッカ時代のシングルA面が網羅されています。といってもデッカからシングルは七枚しか出て居ません。CDには11曲しか収録されていませんが、曲の出来は良いので満足できることと思います。

 トリニ・ロペスが一番売れていたのは1960年代の中頃で、彼がリプリーズに所属して時期になります。リプリーズ・レコードといえば、思い付くのはフランク・シナトラで、自由にレコードを作る環境を得るため、1960年に設立した会社でした。所属するのは、もちろんシナトラ本人と、彼の仲間であるディーン・マーティンとサミー・デイヴィス・ジュニアです。音楽業界の大物たちが集っているのですから、出すレコードもビッグ・ヒットなのかというとそんなことはなく、設立当初はヒットとは程遠い状況が続くのでした。リプリーズからレコードがリリースされ始める1961年です。この時期活躍していた歌手といえば、プレスリー、チャビー・チェッカー、デル・シャノン、ロイ・オービソン、リッキー・ネルソンといった人たちです。また、ゲーリー・USボンズの「Quarter To Three」や、ボビー・ルイスの「Tossin' & Turnin'」がチャート・トップになるなど、黒人の歌う楽曲が、ビルボード・チャートをかなり割合で占めていました。62年にはボビー・ヴィントンやフォー・シーズンズがスターの仲間入りをします。そういう時代に、前時代の大御所たちは何を歌えばいいのでしょうか? まさかロックンロールでも歌うのでしょうか。もちろんそんなことはありませんでした。同時期にシナトラの娘であるナンシー・シナトラもデビューしていますが、若い彼女も決してロックンロールは歌わされなかったのです。

 リプリーズから発売されたレコードの中で、どれが最も早くチャートインしたか、私は知りません。とりあえずシナトラの最初のシングル「The Second Time Around」が50位、次の「Granada」が64位、その次の「I'll Be Seeing You」が58位まで上昇したことは調べて分かりました。しかしいずれも、誰もが認めるヒットとは言えない数字です。私が思うに、最初にトップ40に躍り出たのは、1962年1月27日に34位を記録した、シナトラの「Pocket Of Miracles」だと考えています。これでも大したヒットです。一方、ディーン・マーティンは、ほとんどチャート・インもしません。もう一人、サミー・デイヴィス・ジュニアはやや例外で、1962年リリースの「What Kind Of Fool Am I」が、リプリーズ初のトップ20ヒットを獲得しています。初のトップ10ヒットは、ルー・モンテの「Pepino The Italian Mouse」で、1962年9月に発売され、63年の1月12日に5位を記録しています。このように、リプリーズからヒット曲が出ることは何度かありました。しかし私のリプリーズに対する認識は、時々登場するレーベルでしかなく、有象無象の一つとしか思えませんでした。

 「What Kind Of Fool Am I」は正統派なクルーナー・ヴォイスで、ヒットしたのが快挙と言うべき曲です。一方の「Pepino The Italian Mouse」は、チップマンクス風の高ピッチ・ヴォイスが聞こえるノヴェルティー・ソングでした。サミー・デイヴィス・ジュニアは1964年3月に「The Shelter of Your Arms」(私は「What Kind~」よりこちらの方が好み)で17位のヒットを記録しますが、これ以降安定したヒットは続かず、次のトップ40ヒットは1967年の「Don't Blame the Children」まで待たなければなりません。ルー・モンテに関しては、「Pepino the Italian Mouse」以外にチャート・インした曲があるのか、私にはわかりません。とにかく初期リプリーズは必ずしも順調とはいえない状況でした。まもなく訪れるブリティッシュ・インヴェイジョンは、その不況を決定的なものにしようとしていましたが、リプリーズの大御所たちは底力を見せてくれるのです。が、ここで語るのはシナトラ大逆襲ではなく、影の功労者とも言える存在についてです。

 1963年まで断続的なヒットしかなかったリプリーズ・レコードの中で、最も安定していたと言える歌手がいました。それがトリニ・ロペスです。トリニとは不思議な名前ですが、これは連想する通り、トリニダードの略です。彼の父はトリニダード・ロペス二世、メキシコの歌手だったそうです。息子であるトリニ・ロペス(トリニダード・ロペス三世)は、ダラス生まれです。名前といい生まれといい、南米の香りが横溢しています。そのため彼の音楽も、実に陽気なものです(南米=陽気という印象を私はぬぐい切れません)。

 私の勝手な印象はともかくです。トリニ・ロペスの最初にヒットは、リプリーズ二つ目のトップ10ヒットとなった、「If Had A Hammer」です。1963年のリリースで、最高3位という大ヒットを記録しました。ピート・シーガーの代表曲の一つで、1962年にピーター・ポール&マリーが歌ったヴァージョンが最高10位を記録しています。トリニ・ロペスが歌った1963年の時点で、PP&Mのヒットはまだ記録に新しいわけです。しかしトリニ・ロペスは、PP&Mのヴァージョンを完全に忘れてしまうほどの、まったく異なる歌と演奏を聴かせてくれます。ヒットしたフォーク・ソングは、PP&Mのハーモニーは、一体何だったのか、そんなことお構いなしのパーティー・サウンドを聞かせてくれます。レコードを再生すると、突然騒々しい演奏と歓声。トリニ・ロペスは最初にリップ・ロールを聞かせ、「ウーウー」と心地よさげに歌うのです。PP&Mのヴァージョンを知った上でこれを聞くと、その破壊力に驚き、笑わされます。このご機嫌なパーティー・サウンドは、ジョニー・リヴァーズへ継承され、フォーク・ロックを生み出すという、アメリカの音楽業界への多大なる影響を与えることになります。

 さて、私はトリニ・ロペスをリプリーズ最大の安定を持っていた歌手と言いましたが、シングルという観点では安定とは言い難いです。「If Had A Hammer」の次のシングルである「Kansas City」(1963年)は23位を記録しますが、この次にトップ40に届いたシングルは、1965年の「Lemon Tree」まで待たなければならず、それまではハズレの方が多いのです。私の言う「安定」とはアルバムのことで、「If I Had A Hammer」が収録された『Trini Lopez at PJ's』はアルバム・チャートであるビルボード200で2位を記録しています。その後65年にいたるまで、トリニ・ロペスのアルバムは好調な売れ行きを維持するのでした。

 ここでようやく「I'm Comin' Home, Cindy」の項です。ヒット・アフター・ヒットの続いたトリニ・ロペスでしたが、1966年になると、ヒットもやや緩やかになります。そんな中で突如登場したのが「I'm Comin' Home, Cindy」です。私はビルボード・チャートを40位までしかしっかりと確認しないため、例えば1965年に「Sinner Man」が54位を記録しても、あまり実感がないのです。そんなときに「I'm Comin' Home, Cindy」が40位に出てきました。私の監視の及ぶ限界の数字です。先述の通り、トリニ・ロペスはアルバム中心の人ですから、シングル・チャートばかり見ている私にとっては、トリニ・ロペスはあまり縁のない存在でした。縁はないけれど、彼の曲は好きでした。65年の「Lemon Tree」も大変気に入って、20位に終わったのは残念に思ったくらいでした。そういう私でしたので、彼の曲が再び登場してくれたのは嬉しいことなのでした。聴いてみると、彼の今までのどのヒット曲よりもテンポが速いのです。そして、どの曲よりも派手な仕上がりになっています。常にご機嫌なままで、それ以外は何も変わらないかに思えたトリニ・ロペスも、こうして時代に即してか、サウンドに変化があるのです。トリニ・ロペスの歌唱も、なかなかに力の入ったものになっています。そんなに力を入れるべきなのか、というこちらの疑問をまったく無視してやってくれるのですから、笑うしかありませんし、それが大変心地いいです。

 理屈抜きに好きになった曲でしたが、ビルボード・ホット100では39位が最高位でした。トップ40圏内には三週しか残らなかったのでした。「Lemon Tree」が20位になったことに残念に思った私ですから、それ以下の39位はそれ以上に遺憾なのでした。そしてこれがトリニ・ロペスにとっての最後のトップ40ヒットになります(ACチャートではこれ以降もしばらく健闘します)。

 1966年というと、どういう時期でしょう。ブリティッシュ・インヴェイジョンの衝撃はようやく治まり、アメリカの音楽も大いにビートルズたちへ影響を与えるものになりました。そんな中でリプリーズ・レコードはというと、明らかに好調と言えるものでした。プロデューサーのジミー・ボーウェンやリー・ヘイズルウッド、そしてアレンジャーのアーニー・フリーマン、そして60年代のポピュラー・ミュージックを語る上で書かせないドラマー、ハル・ブレインといった優秀な人材が集い、大いに貢献するのです。64年にディーン・マーティンの「Everybody Loves Somebody」がチャート・トップになり、50年代の「Memories Are Made Of This」や「Return To Me」以来の大成功となります。65年には何故かリプリーズと契約したキンクスや、ディーン・マーティンの息子がメンバーであるディノ・デジ&ビリーのヒット曲が目立ちます。そして66年には、シナトラ親娘がそれぞれチャート・トッパーを獲得するという稀有なことが実現します。まさに大御所たちの大復活です。67年には、エレクトリック・プルーンズの「I Had Too Much Dream (Last Night)」という信じがたいサウンドで構成された曲がヒットし、あのリプリーズがサイケデリックをやったことに驚かされるのです。このようにリプリーズは、ブリティッシュ・インヴェイジョンという逆境から奮起し再興するのでした。しかしそうなる前に、リプリーズを支えていたのは、間違いなくトリニ・ロペスではありませんか。66年に最後の輝きを放った「I'm Comin' Home, Cindy」に、私は賛辞を送るほかありません。

 最後に。「I'm Comin' Home, Cindy」は、トリニ・ロペスの66年のアルバム『Trini』に収録されています。アルバムの一曲目には「Fly Me To The Moon」が収録されています。有名なスタンダードである「Fly Me To The Moon」も、トリニ・ロペスにかかれば、なすがままに機嫌がよくなるのでした。これでこそトリニ・ロペスです。この一貫した姿勢がトリニ・ロペスの魅力であり、素晴らしいところであると思います。惜しむらくは、彼のアルバムがあまり再発されていないことです。先述の『Trini』もおそらくCD化はされていないと思います。彼の魅力はやはりアルバムに表れるものですから、もう少しなんとかしてほしいものです。

 ブライアン・ハイランドと言えば「ビキニスタイルのお嬢さん」というのが定説です。陽気と言うほかないこの曲は、一般的に言われるオールディーズの象徴となっています。ブライアン・ハイランドの甘い声は、これ以外の年代ではまず聞かれないもので、決してシャウトをしない、専門的なヴォイス・トレーニングもきっとされていない、これぞまさに60年代です。1960年から1963年は、実に不思議なポップ・ミュージックで溢れていた時期で、それらは1964年以降のブリティッシュ・インヴェイジョンによってほとんど見事に消え去った、幻の音楽とも言えます。ブライアン・ハイランドの「ビキニスタイルのお嬢さん」、いえもう原題でいいでしょう、「Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polkadot Bikini」も、幻のポップ・ミュージックの一つです。この曲に追随したヒット曲を私は聞いたことがないです。この曲を何かに分類づけるとするなら、ノヴェルティー・ソングでしょう。この曲が1960年8月8日にチャート・トップになる四週間前の7月11日、ハリウッド・アーガイルズの「Alley Oop」という曲が首位になっていることから判断して、この時期ノヴェルティー・ソングが好まれる傾向にあったと言えます。しかし「Alley Oop」は、あまりにもノヴェルティーに過ぎます。そもそもハイリウッド・アーガイルズというグループ自体、「Allep Oop」という曲を発表するために作られた、即席の、実態のないグループだったのですから。それと「Itsy Bitsy~」を比較すると、まずブライアン・ハイランドは実在する人物ですし、この曲のために用意されたわけでもありません(あるいはデビュー当時はそうだったかもしれませんが)。しかもこの曲は「Alley Oops」と比べて、明らかにメロディアスですし、ヴァースやコーラスといった展開が明確に構成されています。メロディとノヴェルティが両立した曲は、あまり思い付きません。そこが独自なもので、その後何かに発展することもなかったのです。進化論を論じようとする際、何にも分類できないような不可解な生き物が時々出てくる。そんな感じに似ている気がします。

 実際ブライアン自身も、このノヴェルティー路線を持続させませんでした。できなかったと言うのが適当でしょう。大ヒット曲の後にリリースされた「Four Little Heels (The Clickety Clack Song)」は73位と、比較にならない成績です。その後も数枚、やはり陽気な曲がシングルとしてリリースされますが、結果は悪くなるばかり。早くもワン・ヒット・ワンダーの兆しが見えます。チャート・ヒットの世界とは、かくまでに厳しいものです。

 しかしブライアンは、この過酷な世界の中ではかなり運の良い方です。彼は持続性に欠きますが、瞬発力はあります。「Itsy Bitsy~」の大ヒットから一年経ちました(一年と言うと、なんだそれくらいと思うかもしれませんが、一年間には約五十週ものチャートがあり、毎週目まぐるしく変化していくのです。そんな世界から半年でも姿を消していると、もう大昔のことのように思えてくるものです)。ブライアンは、それまで在籍していたキャップから、ABCパラマウントへ移籍します。7月に「Let Me Belong To Me」がリリースされ、これが20位のヒットになるのでした。20位と言うと、あまり派手な数字には見えませんが、直近のシングルが100位圏内にすら届かなかったブライアンにとっては、大いなるヒットと言うべきでしょう。曲はもうノヴェルティーとは言えないもので、真逆の静謐なトラックとなりましたが、ブライアンの甘い声だけは変わらないのでした。この曲の作曲はゲーリー・ゲルドとピーター・アデルによるもので、以降ABCからリリースされるブライアンのシングル曲は、すべてこの二人が担当することになります。早々とABCへ移籍したこと、「Let Me Blong To Me」を歌う機会が与えられたこと、そしてゲーリーとピーターの曲を継続して与えられるようになったこと、この三つの奇跡があったことによって、ブライアンはポピュラー・ミュージックの世界に永く生き残ることができたと考えます。どれか一つでも欠けていたら、彼はきっと一発屋に終わっていたことでしょう。

 ABC時代のブライアンに与えられたコンセプトは、「脱ノヴェルティー」だったのではないでしょうか。「Let Me Belong To Me」の後にリリースされた「Ginny Come Lately」(1962年)も、やはり穏やかな曲で、21位まで上昇します。やはり派手なヒットとは言えないながらも、ここでブライアンの新たな方向性は決定したと言えます。

 その路線を決定的にしたのは、「Ginny Come Lately」の直後にリリースされた「Sealed With A Kiss」でしょう。私が最初にこの曲を聴いたとき、今までとは180度異なるマイナーキーに驚かされました。とても二年前に「Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polkadot Pikini」を歌っていた人とは思えなかったのです。イントロのギターがまず不穏ですし、ハーモニカの音も寂しげです。あんなに甘かったブライアンの声も、この曲では感傷的です。この曲で初めてブライアンのヴォーカルはダブル・トラックになっており、ハーモニーも重ねられています。マイナーの曲をあまり好まない私ですが、この曲には味わい深く感じ、よく口ずさむこともありました。「Sealed With A Kiss」は後にこの曲は、ゲーリー・ルイスやボビー・ヴィントンにカヴァーされ、その度にヒットしています。「Itsy Bitsy~」と「Sealed With A Kiss」という二曲のクラシックを最初に歌ったというのは、ブライアンにとって誇るべき事実と言えるでしょう。

 しかしマイナーキーというのは難しいもので、そもそもあまり喜んで受け入れられない性質を持つのですから、運の良い時機を見計らわらなければならない手札です。「Sealed With A Kiss」は見事成功しましたが、暗い曲の二匹目のドジョウは成功し難いです。それをレコード会社は理解してか、「Sealed With A Kiss」のようなマイナーソングをブライアンに歌わせることはありませんでした。その後続くシングルは、「Let Me Belong To Me」や「Ginny Come Lately」のような穏やかな曲ばかりでした。しかし人々の心は常に移ろうもので、いつまでも同じ曲をやっていると飽きられるばかりです。これではいけないと思ったのか、1963年10月にリリースされた「Let Us Make Our Own Mistakes」は、打って変わって賑やかな曲になりますが、100位圏内に届かず。これを以ってブライアンのABC時代は終わったのでした。

 ブライアンはフィリップスへ移籍し、1964年から1965年の間に五枚のシングルをリリースしますがすべて不発。既にビートルズがアメリカに上陸しており、ブライアンの立場は無いも同然です。ビートルズが「イェーイェー」と叫んでいる中で、ブライアンが全然時代にそぐわない、穏やかな曲を歌わされているのを見ると、当時のアメリカの音楽業界がいかにブリティッシュ・インヴェイジョンを困惑して見ていたかが分かります。いよいよブライアンも過去の人となろうとしていました。

 しかし幸運なブライアンは、ここで終わりません。彼の転機は1965年7月にリリースされた「Stay Away From Her」であると考えます。残念ながらノン・ヒットですが、ここで聴かれるレンディションは、明らかに従来のシングル曲と異なります。時代に即したアレンジになっているのです。ブライアンのヴォーカルも、それまでの甘い声からより力強いものとなり、成長を感じさせるようです。そういえば「Itsy Bitsy~」がヒットしたとき、ブライアンはまだ16歳だったのでした。「Stay Away From Her」のときですらまだ21歳……なんと若いことか。1965年の半ばを過ぎて、アメリカの音楽業界はようやく覚悟を決めたという印象があります。

 「Itsy Bitsy~」と「Sealed With A Kiss」の成功に次ぐ三つ目の幸運は、彼のシングルのプロデューサー、アレンジャーをスナッフ・ギャレットとリオン・ラッセルが担当するようになったことです。スナッフ・ギャレットと言えば、60年代前半からボビー・ヴィー、ジーン・マクダニエルズ、ジョニー・バーネットのヒット曲のプロデュースを手掛けていた、優秀なプロデューサーです。リオン・ラッセルは優秀なピアニストであり、同時に優秀なアレンジャーです。60年代中盤には、この二人がチームとなって、ゲーリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのレコードを制作し、大ヒットを連発していました。まさに最強の二人です。この二人が最初に手掛けたブライアンのシングルが、今回紹介する「3000 Miles」だったのです。1966年2月のリリースです。前作「Stay Away From Her」の系統をしっかりと引き継ぎ、更に良いものにしています。「Stay Away From Her」は、「おや?」と思わせる箇所もありますが、明快なフック・ラインを持たせられないまま、うやむやに終わってしまったところがありました。2分弱で終わってしまうのもその証拠です。「3000 Miles」はイントロからして、はっとさせられるものがあります。ヴァースもコーラスも感動的なほど良いメロディで徹底されています。構成もレンディションも見事で、楽曲選びには余念のないスナッフ・ギャレットの業と、楽曲の緻密な設計を得意とするリオン・ラッセルの業が融合した結果です。

 歌詞ですが、身分の違う男女の駆け落ちの歌と言っていいでしょう。自分は貧しく、古郷から遥かに離れている、それでもあなたは幸せですか、というような。なかなか感動的ですね。それにしても3000マイルってとんでもない距離だと思うのですが、一体どこに住んでいるんでしょう?

 さて、ここまで転機とか幸運とか見事とか、褒め続けているわけですが、じゃあこの曲はヒットしたのかと言うと、残念ながら全然です。驚きの最高99位です。100位でないだけマシというものでしょうか。それにしてもオブスキュアが過ぎます。スナッフ・ギャレットとリオン・ラッセルの尽力も空しいものです。ブライアンは64年から64年の二年から一曲もヒットがなかったのですから、そういう状況から再起させるのは困難でしょう。

 「3000 Miles」はヒットしませんでした。しかしスナッフ・ギャレットとリオン・ラッセルはただでは転ばないのです。常に最善の道を選ぶというものでしょう。ブライアン・ハイランドに適した曲は、「Stay Away From Her」「3000 Miles」のような、感傷的なメロディの光る曲ではないと判断したのではないでしょうか。そもそも1966年にヒットした曲を見てみると、単にメロディが良いだけのヒット曲は少ないように思います。一つ挙げるならゲーリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの「Green Grass」でしょうか(アレンジャーはリオン・ラッセル)。しかしこの曲のヒットは、ゲーリー・ルイズが人気の絶頂だったからこそ可能だったことと言えます。やはりブライアンにはできるだけ陽気さが必要なのでしょう。そういうわけで(かどうかは分からないが)用意された曲が「The Joker Went Wild」でした。この曲は1966年の6月にリリースされ、ビルボードで最高20位という記録を残すのでした。これも派手なヒットとは言えないのですが、やはり「3000 Miles」とは比較にならないほどの成功です。この「The Joker Went Wild」以降についても詳しく書きたいのですが、いい加減長くなりすぎるので、次の機会に廻したいです。

 今日ではブライアン・ハイランドといえば「ビキニスタイルのお嬢さん」で、それ以外の曲はほとんど語られません(強いて言うなら「Sealed With A Kiss」)。しかしもっと突き詰めて語るとなると、「The Joker Went Wild」のヒットが無視できなくなります。この曲は、長らく低迷していたブライアン・ハイランドの久しぶりのヒットとして、注目に値するものです。しかしこの曲のヒットは、「3000 Miles」という土台があって初めて可能となったとは考えられないでしょうか。何事にも順序があることを教えてくれます。

 それにしても、当時のブライアン本人およびレコード会社、あるいはA&Mマンの思惑を知りたいものです。フィリップスで悪くいえば凡庸なシングルばかり出していた中、どのように「Stay Away From Her」へと心機一転できたのか。そしてゲーリー・ゲルドとピーター・アデルと手を切り、どういう経緯でスナッフ・ギャレットとリオン・ラッセルの協力を得ることができたのか。ここから先は推測を大いに含みます。スナッフ・ギャレットは、今までゲーリー・ルイスのレコードのプロデュースを手掛けていたのが、1966年2月発売の「Sure Gonna Miss Her」を区切りとしてプロデューサーを(一時的にとはいえ)解任されます。なんでもスナッフの解任はゲーリーの希望だとか聞きます。ブライアンの「3000 Miles」も発売は2月です。推測ですが「Sure Gonna Miss Her」の時点で、スナッフは自分が辞めさせられることを自覚しており、新たな仕事としてブライアン・ハイランドというこの頃落ち目の歌手に手を付けたのではないか……。いえ、本当のところは分かりません。

 

 この曲を聴いたのはベスト盤を入手してからです。私はビルボード・チャートを40位までしか確認しないので、はるか下の99位にいたという「3000 Miles」を見つけることはありませんでした。

 

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 このCDは、異なるレーベルから発売されたヒット曲を集めたものです。20位圏内に入ったヒット曲は網羅されています。一方で「3000 Miles」のような、ヒットとは程遠いオブスキュアな曲も収録されています。ブライアンのキャップ~ABC時代のチャート成績を見れば、「3000 Miles」以上に売れたシングルが何枚もあります。しかしそれらをオミットして、フィリップス時代のオブスキュア・ヒットを積極的に収録しています。選曲者の工夫が窺えます。ブライアン・ハイランドという歌手が、初期の「Itsy Bitsy~」のようなノヴェルティー路線だけの存在でないことを主張したかったのではないでしょうか。このベスト盤に「3000 Miles」が収録されているのを見ると、ついそう思ってしまうのです。

 私が言っている「ジミー・ロジャーズ」とはカントリー歌手のことではなく、後年のポピュラー歌手のことです。1957年に「Honeycomb」がチャート・トップになって以来、「Kisses Sweeter Than Wine」「Secretly」といったヒットを連発しました。しかし彼のヒット・アフター・ヒット時代は短く、1960年以降ヒットらしい曲は激減します。50年代後半は実に微妙な時期でして、ロックンロール隆盛以前の面影を残していながらも、確実に60年代のサウンドへと向かっているという、言ってしまえば洗練されていないのです。この時代に誰よりも頂点に居たのはプレスリーです。「50年代と言えば?」と問われたとき、プレスリーと答えれば概ね正解で、あとはリトル・リチャード、ポール・アンカ、エヴァリー・ブラザーズ、コニー・フランシスといった名前を挙げていく、といった具合です。この時代に華々しくデビューした人たちの多くは、数年後に名前を見なくなることが多く、過渡期の徒花とでも言いたくなります。Jim Lowe、Tommy Sands、Buddy Knox、Jack Scott……思い出そうとすれば、いろいろと名前が出てきます。彼らには一曲の代表的なヒットがあり、あとはそれに付随する曲がいくつかあり、あとは全然わからない、そういう印象が私にはあります。とにかくプレスリーが時代の帝王でして、やがてロックンロール全盛の時代が終わり、その後デビューした歌手たちが活躍する。その間に、少し前まで旬だった歌手は、急激に過去の人になっていくのでした。書いている自分までが悲しくなります。時々過去を振り返ろうと50年代のチャートを見ると、そういえばこんな曲を歌った人がいたんだっけ……と感傷に浸る気持ちになります。

 ジミー・ロジャーズは、そんな悲しき時代にデビューした歌手の一人です。彼の全盛期は間違いなく57~58年で、それ以降の顕著なヒットは少ないです。しかし彼にはまだ活路が残されていたのです。60年代以降、彼の曲がアダルト・コンテンポラリー・チャートで上位までのぼるようになったのです。デビュー当時こそ「Honeycomb」のようなカントリー路線だったジミー・ロジャーズですが、確かに彼のヴォーカル・スタイルはアダルト・コンテンポラリーでも通用するものです。実際1958年のヒット曲である「Secretly」は、ACチャートでも5位まで上がっています。この曲はアレンジ次第ではボビー・ヴィントンが歌いそうな曲です(実際何かのアルバムで歌っているのではいないでしょうか?)。そうなるとジミー・ロジャーズが本来行くべき道は、ボビー・ヴィントンのようなスタイルだったのかもしれません。もう少し売れるのが遅ければ、ジミー・ロジャーズの音楽人生は大きく変化していたでしょう。

 ここでようやく本記事の題である「It's Over」に到着します。この曲はジミー・ロジャーズのAC時代の代表曲の一つと言えます。しかし個人的にこの曲は、ACチャートに記録されたと事務的に記述するだけでは済まされないものがあると感じます。

 この曲の発表は1966年でした。私はいつものようにビルボードのトップ40チャートを見ていました。1966年6月18日、Jimmie Rodgersの歌うIt's Overが37位として登場しました。私はかなり久しぶりに「Jimmie Rodgers」という名前を見たことに驚きました。ヒットから遠ざかっていた人が再び登場することはこれまでに何度もあったことなため、「Jimmie Rodgers」がHoneycombのジミー・ロジャーズであることを疑いはしませんでした。しかしそれにしてもジミー・ロジャーズはかなり長い間名前を聞きませんでした。最後に彼の名前を見たのは、「T.L.C. Tender Love and Care」が24位まで上昇した1960年です。50年代後半にデビューし、1960年を最後に久しく消えていた人が、1966年になってトップ40に現れる。これはかなり異様なことに見えたのでした。

 「It's Over」という曲名にも思うところがありました。私は最初、これはロイ・オイービソンの「It's Over」なのかと思いました。そう思ったのは、私がロイ・オービソンの曲が好きだからというのもありますが、それだけではありません。1966年の6月にジェイ&ジ・アメリカンズが、ロイ・オービソンの「Crying」をカヴァーしてヒットさせていたからです。ジミー・ロジャーズの「It's Over」が37位まで上がった頃、「Criyng」は28位でした。

1966年という年において、ロイ・オービソンとジェイ&ジ・アメリカンズの名を挙げるのは、喩えようのない感興があります。両者ともに1966年が衰退の年だからです。ロイ・オービソンは1965年以降、トップ20ヒットを生み出せなくなり、古巣モニュメントからMGMへ移籍したことで彼の衰退は決定的なものになりました。1966年にトップ40圏内に入ったシングルは「Twinke Toes」一曲のみで、しかも最高39位と、かなり限界の感じる記録です。一方のジェイ&ジ・アメリカンズは、1964年から65年にかけての大活躍から一変して、1966年は低迷の年となりました。唯一のトップ40ヒットは先述の「Crying」です。ジェイ・ブラックの歌唱は、ロイ・オービソンと通じるところがいくらかあるかもしれません。実際この「Crying」では、ロイ・オービソンの歌声にかなり似せています。だからといって、ロイ・オービソンの曲をカヴァーすればヒットするのかと言えばそうでもなく、「Crying」は25位までしか上がらなかったのでした。私もこのトラックをさほど良いとは思いませんでした(同じ「Crying」を聴くならロイ・オービソンの方がいいと思います)。1965年のジェイ&ジ・アメリカンズの快進撃と比較すれば、明らかに劣る成績です。ヒットという観点から見れば明らかに衰退の一途を辿るロイ・オービソンとジェイ&ジ・アメリカンズ。ジミー・ロジャーズの「It's Over」は、そうした感傷を思わせる効果をなしたのです。

 「Honeycomb」を代表とするジミー・ロジャーズのヒット曲は、ルーレット・レコードから出たもので、ジミー・ロジャーズと言えばルーレットという認識でいました。しかしこうして「It's Over」がチャートに上がり、レーベルを確認すると、いつの間にかジミーはドット・レコードに移籍していたのです。ドットはルーレットよりも古くからあるレーベルで、パット・ブーンの一連のヒット曲がドットにとっての代表的なレコードです。ドットを説明する際にパット・ブーンの名を出すことから明らかなように、ドットはもう新しい、ヒップなレコード会社ではありません。1965年12月に、バリー・ヤングの「One Has My Name」が最高17位になったのを最後に、ドット産のトップ40ヒットソングは久しく無く、「It's Over」が半年ぶりのヒットとなったのです。余談ですが、1965年のドット発のトップ40ヒットは先述の「One Has My Hame」のみ。1966年は「It's Over」と、サーファリーズの「Wipe Out」(最高16位)の二曲です。「Wipe Out」は1963年に最高2位という大ヒットを記録しましたが、それはもう過去のことで、サーフィンという時代遅れの曲が66年に再び浮上するとは、誠に稀有な現象です。閑話休題。ジミー・ロジャーズは1962年にドットへ移籍したようで、それからはビルボードのHot 100でオブスキュアなヒットをいくつか出しています。

 そんな中で「It's Over」は1966年にリリースされ、6月18日に37位まで上昇、翌週25日には40位に落ち、その翌週には姿を消しました。きっと41位以下のどこかにいると思うのですが、私は観測していません。一方でACチャートでは5位まで上昇しています。肝心の曲の内容ですが、確かにACチャート向きでしょう。当然、ロイ・オービソンの「It's Over」とは別物です。アコースティック・ギターの音が優しく響くことからもそれは明らかです。ジミー・ロジャーズの少し細く高い声は、少し悲しげに、そしてやはり優しく聞こえます。スネア・ドラムはブラシで微かにリズムをとるのみで、これではどうやってもロックンロールにはなりません。あとはウッド・ベースの音も聞こえます。聞こえる音はこれだけです。歌とギター、ドラム、ベース、本当にこれだけです。ストリングスで感動を喚起することもありません。この淡々としたところが私の気に入りました。私は泣き落としに対して冷静になりたがる人なのです。

 「It's Over」はレコード会社が違う上に、全盛期から何年も経った、大ヒットとは言えない曲であるため、ジミー・ロジャーズのベスト盤に収録されていないことが多いです。私が持っているCDにも収録されていません。こちらのライノから発売されたベスト盤には収録されていることが確認されました。

 

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 私は幸運にも「It's Over」のシングルを入手できました。ですからカップリング曲も聴けます。「Anita, You're Dreaming」という曲です。驚いたことに、こちらの方が楽器の音が多く、より多くの予算が使われているようです。管も弦も、マリンバも、コーラスも聞こえるではありませんか。この曲はウェイロン・ジェニングスというカントリー歌手が作曲したもので、彼のヴァージョンはカントリーチャートで17位を記録しています。ウェイロンの初の顕著なヒットで、これ以降カントリーで安定したヒットを続けます。ウェイロンのヴァージョンでも、マリンバの音が効果的に使用されていますが、ジミーのヴァージョンで聞こえた管と弦の音はまったく使われていません。つまりジミーのヴァージョンでは、カヴァーする際にいくらか装飾がされているのです。

 シングルを入手したことで両面ともに聴くことができましたが、やはり「It's Over」の方が上出来であるように思います。「It's Over」の作曲はジミー・ロジャーズ自身によるもので、この曲がある程度のヒットとなったことは、ジミーにとって嬉しいことだったのではないでしょうか。

 それにしても、1966年になってなぜこの曲がヒットしたのでしょう。1962年にドットに移籍して四年経っているのです。今さらな感じがしませんか。四年の間にアメリカの音楽は大いなる変化を遂げているではありませんか。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こったのは1964年です。1966年6月には既にサイケデリックの兆候が見え始めているのです。「It's Over」がトップ40圏内にいた二週間に1位を獲得していた曲は、ローリング・ストーンズの「Paint It, Black」とビートルズの「Paperback Writer」です。そんなときに「It's Over」という、50年代の曲と言われても信じてしまいそうな曲がヒットするとは、やはり音楽チャートとは奥が深いものです。

 

 関係のないことを言いますが、「Paperback Writer」が首位になった翌週の7月2日には、フランク・シナトラの「Stranger In The Night」が首位に代わっています。一種の時代の逆行があったとも言えるのでしょうか? 一つだけ断言できるのは、60年代中盤が混沌の期間だったということです。それからジミーの居なくなったルーレット・レコードですが、1962年にはジョーイ・ディー&ザ・スターライターズ、63年にはルー・クリスティーやエセックスといった人たちのヒットがありましたが、いずれも長続きはせず、それ以降しばらく低迷が続きました。しかし1966年にトミー・ジェームス&ザ・ションデルズの「Hanky Panky」がチャート・トップになり、大いに復興するのでした。「It's Over」と「Hanky Panky」のヒットは同時期(当然「Hanky Panky」の方が持続したヒットではある)でして、こじつけになりますがジミーとの因縁を感じます。