1月11日富山県立山連峰と富山湾
令和6年1月9日0:49分
母87歳と半年で
天に召されました
教室の皆さま、コーラスの皆さま
ご町内の皆さまには大変ご心配をおかけしましたが
皆さまのおかげで無事葬儀を終える事が
出来ました。
ありがとうございました
1月11日の葬儀の日は
快晴の空のもと立山連峰が
それはそれ美しく凛々しく広がっていました
立山に向かう様に走り出した霊柩車
母は
立山連峰に向かい入れられるかの様に
天へと旅立ちました
寒い冬のこの季節にもかかわらず
葬儀の日だけは小春日和の様に
穏やかなそれは良い天気に恵まれました
母はよほど行いがよかった方なのではと
仰ってくださった娘達の恩師
9月30日に心筋梗塞から脳梗塞を併発し
救急搬送されました
余命数ヶ月と、、
延命治療の選択は母のためにしない事に
救急病院での手厚い治療の後
1ヶ月後
容態が安定し療養型病院へ転院
会話も食事も出来なくなってしまいましたが
病院では若い介護士さん方が
それは朗らかに優しく丁寧な看病
介護、リハビリをしてくださり
母も穏やかに過ごせたのではと思います
そうして2ヶ月と少し過ごし
1月9日息をひきとりました
穏やかなお顔でした
年老いた母でしたが
艶のあるお肌でとても美しいお顔でした
母は結婚して直ぐから父の仕事に付き添い
行く先々で新しい仕事に就き
苦労を苦労とも思わず
役目を果たしながら
人に尽くす事を自分の喜びとしてきた人でした
孫達のために仕事を辞めて子守りをしてくれた後
もう一度今度はヘルパー、家政婦の仕事が
したいと60歳を過ぎてから
介護の3級、2級と合格し
看取りのお世話をする事になりました
母の、丁寧な介護が信頼を得て
VIPのお宅へ派遣される様になり
それは一生懸命お世話していました
患者さんからも信頼があり話し相手になり
お見送りした後はご家族の皆様からは
本当に感謝されて長文のお手紙やお言葉を頂き
やりがいを感じていました
そうする内、精一杯介護をしても
お亡くなりになってしまう事が
辛く悲しく消化出来なくなってしまい
寝込む様になりました
心が壊れる前に、お仕事を辞める様に進めました
それから今に至りました
母の最後のお仕事は看取りのお仕事
介護の大変さが良くわかっていましたので
介護施設には行きたくないと
私は最後までお家で私がお世話するからねと
元気でいてねと
9月の倒れるまでは
普通に生活をしていました
本人は不本意だったかもしれませんが
母が精神誠意、手厚く介護をしてきた様に
母も若い看護士さん方に手厚く優しく
最後を看取って頂きまして
私達家族も感謝の気持ちでいっぱいです
本人も心穏やかに過ごせて感謝していただろうと
推測しています
葬儀屋の皆様も、お仕事と言えども
家族の様に丁寧丁寧に進めて頂き
悲しみの中にも
母をこんなにも美しい見送りが出来たことに
ほっとしています
人は生きてきた様に
最後を迎えると言いますが
母は棺に入り
赤やピンクやオレンジの
それは美しいお花でお顔のまわりを飾って頂き
87歳の高齢の顔を
お化粧を施して頂くと
それはそれは美しい
白雪姫か眠れる森の美女の
あのディズニーアニメの一コマの様な
美しいお顔になりました
母は私が幼い頃
温泉旅館の女将をしていましたので
お着物にはこだわりがありました
棺には
エメラルドグリーンのお気に入りの着物と
江戸時代の絵巻の様な帯と帯揚げ帯締めを
コーディネートしてあげ
あつらえた、母にしか履けない足袋を納め
新品の布のバックに
寒いので手袋と
私が小学生の頃初めて
母の日にプレゼントしたスカーフを入れ
持たせてあげました
ネイビーとレッドとアイボリーの
ペイズリーの洒落たスカーフ
パリのお土産のスカーフはあまり好きでは無い
とか言って私に返したくらいなのに
母の日のプレゼントのそれだけは
大切にしてくれていました
亡くなってから私の知らなかった
母の優しさの思い出を
皆様からお聞きしました
優しい優しい温厚な母でした
娘達はあんなに優しいおばあちゃんいないわ
大好きだったと
主人が喪主のご挨拶をしてくれました
普段は義理の母ですからそんなに会話もありませんでしたが
母にはもう少し長生きしてもらいたかったと
倒れてから良く頑張ってくれたと
泣いてくれました
母には
立派な87年間だったこ
母のおかげで
私達家族が今皆幸せでいる事
ありがとうありがとう
ただありがとうと
寂しさの中にも
母が天に召されて
楽になったであろうと
ほっとしています
お教室の皆さまお休みをたくさん頂き
ありがとうございました
今週からレッスンを始めます
楽しい楽しいレッスンで
皆さん弾く喜び感じていきましょう
荒川裕子音楽教室