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Lake's Bass Factory

当たり障りのないことを書くつもり。

 何かを記憶するのは苦手だ。曲のタイトルが曲と一致するまではかなりかかるし、人も際立って特徴的でなければ顔と名前が一致するまで相当かかる。だからMoneyもEasy MoneyもDanger Moneyもごっちゃごちゃ、一番顔を合わせていた学科の同期でさえ3年の7月にも名前がすぐに出てこなかった。

 ところが、もちろん曲を聴けば聴いたことがあるものであると判断はできるし、人の顔を見れば初対面かどうかくらいはわかる。名前もしかり。どうやら、二つのことを結び付けて覚えるのが苦手なようだ。

 ストーリーや楽譜は比較的簡単に覚えられる。それは学科の同期と顔を合わせるより何十倍も頻繁に本を読んだり曲を聴いたりしているから、というのもあるかもしれないが、むしろ二つのことを結び付ける必要がないことのほうが理由としては大きい。あらかじめフレーズとフレーズは結びついているから、頭を使わなくて済む。

 

 

 ベースの配線をした。たくさんやけどをした。音は出た。嬉しい。

 

 

 昔から物を弄ったり分解して元に戻したりするのが好きだったので、実は職人気質なんじゃないかと思う今日この頃。

 

 

 いい加減英語を読むのがつらい。辞書を引きたくない。辞書を引かなければならなくなるといつも憂鬱な気分になる。地獄のような日々。読んでいる内容とつらさはさほど関係がない。

 もしも自分があのときああいう選択をしていたら、という想像は誰しもしたことがあると思うが、私の場合はよく中学一年生の頃を考える。中学に入ったとき、苦手だった算数は数学に名を変えたように思えた。算数の延長ならば自分には必要ないと、私は切り捨ててしまった。私の学校は中学一年生で習う最初の数学に命題論理と集合を置いていて、確かにこれは算数の延長ではなかったし、楽しくもあった。しかし、翌学期からはユークリッド幾何なるものが始まり、算数を難しく言ってみたという程度にしか感じられなくなってしまった。中学一年生の二学期にして数学のテストは14点を取った。

 それ以来、私は嫌いだった算数の延長として数学を嫌い、数学が比重を増してくるにしたがってかつて好んでいた物理や化学も敬遠するようになった。そうした性向は大学の入学試験制度によっても助長された。私は数学が0点であっても大学に受かる自信はあったし、文系にも世間一般の理系と同じだけの数学をやらせる自分の高校は何を考えているのかわからなかった。

 大学に入って、当初は哲学なんぞをやろうとしていた私だったが、ほんの偶然から一年の秋に科学史の授業を取った。たいそう穏やかな先生だったが、話には引き込まれた。そして、私は気づいた。科学は人間の営みなのだ。その点において、文学とも、歴史とも、哲学とも、違いはないのだ。

 私は物理に挑戦することにした。いきなり数学をやるのはさすがに抵抗があった。とりあえず一番普通の力学から始めた。高校のときになんとなく聞いたことのある話が整理され、一問づつ計算問題ができるようになっていくのは端的に言って新鮮だった。

 二年からは数学の授業と物理の授業に出席した。履修はしたものもしなかったものもあった。驚くべきことかもしれないが、このとき出会った先生方のお話はどれも非常に引き込まれる面白いものばかりであった。そして、私はまさに物理や数学を通して、自分が物理現象よりもそれに関わる人間に、人間に興味があるということを自覚した。物理学者のことを知りたいがためにその人の業績を理解しようとしていた節があった。ともあれ人間への関心は物理と数学が教えてくれたものであった。

 私は物理の道には進まず、科学史の道は不真面目な学習態度によって閉ざされてしまった。そうして一学部生として文学研究などをやっているわけだが、私にはどうも、文学も物理も、根のところから違うというふうには思われない。ただ世界を記述する方法が異なっているだけで、目指す方向はそう遠くないのではないか。あるいは文学研究と物理も、それはよくわからない状態から首尾一貫性を引き出す作業なのではないか。もちろん、抽象化の度合いは恣意的であって、そんなものはまったくの幻想かもしれない。だが、物理や数学の先生方が、ただ物理や数学の話をしているだけで面白い話になるというのは、これと何か関係があるかもしれない。

 私はときどき思う。誰でもある程度の努力(その量は人によるだろうが)を積めば、天才的な仕事とは言わないまでも、大学の理学部を卒業するくらいのことはできるのではないか。私もせめて人並みに数学や物理を勉強していれば、もしかしたら、と。

 物理の世界はたくさんの不可思議にあふれている。文学の世界もたくさんの不可思議にあふれている。文学が物理に寄与するところは、せいぜい物理学者の気休めになる本を提供することぐらいかもしれないが、物理が文学に寄与するところも同じくらい小さく、同じくらい大きい。私の周りには何人か物理学科に行った者がいるけれども、彼らが(こちらの知識レベルを無視して)話してくれる専門的な話題は、つねに世界への新たな視点を提供してくれる。

 私は一日一日、物理学の知識を忘れていく。しかし、いっとき物理を学ぼうと思い、せっせと失った分を取り戻そうともがいたことは、いまの自分を作るうえで重要だったと思っているし、もしいま、ノーリスクで物理をやり直す機会があるなら(また壁に立てかけられた板の問題から始めることになるだろうが)、迷わず飛びつくだろう。そういうわけで、私は今日も物理に取り組む人々を尊敬と羨望とアホだった十二歳の私の姿とを交えて眺めているのである。 

 ダンカン・ジョーンズ監督、サム・ロックウェル主演の映画、Moon(2009)を見た。主人公サム・ベルは月の裏側で一人暮らす3年契約のエネルギー会社職員。あと二週間で契約が切れ、地球に帰ろうというときになって、幻覚を見て事故を起こしてしまう。目が覚めると……Where am I?

 

 ミステリー要素があるので本筋についてこれ以上は書かないが、さすがにジョーンズ監督も鋭いなと思ったのは、これが記憶の物語でもあるということだ。あなたの記憶とわたしの記憶、というあたりまえの構図が疑問に付され、自身の記憶による自己同一性の担保すらなくなっていく。あなたはわたし、わたしはあなた、しかし、外見こそにているものの、性格も違えば年齢も違う。わたしは誰なのか?あなたは誰なのか?なぜわたしはあなたではないのか?

 わたしたちは写真データや音声データをコピーし、インターネットを通じてそれを世界中に配り、さらにそれが誰かの手によってコピーされる。わたしの記憶が誰かと「シェア」されたとき、それは誰の記憶になるのだろうか?記憶をシェアした誰かは、わたししか会ったことのない、当人にとっては見ず知らずの人間のことを、わたしのように愛するのだろう。Where am I?わたしはどこにいるのか?着地点が見つからないので今日はおしまいです。

 

 

 

それでは。

 履歴を見たら久々の更新らしいですね。それほど書くべきことが書くべき場所を得ていたということです。

 

 シングルってあるじゃないですか。CDとかで、2曲だけ入ってて、インスト入れて4曲、みたいなアレです。実は私、このシングルのシステムが謎です。普通シングルってアルバムからカットするものじゃないですか。シングルカットって言葉もあるくらいだし。それが、一部の界隈だとシングルを集めて、新規曲も何曲か入れて、それでアルバムにしてるみたいなんですね。

 

 それじゃ、なんでシングルを買うの?って話じゃないですか。いずれは聞ける。最近見る近日更新分だけ有料の無料漫画サイトみたいなノリなんですかね。しかも、アルバム見据えてシングル作っていかないと、集めたときにアルバムの方向性がバラバラになりそうな予感。もちろん、コンセプトが一貫しているから全部いい曲というわけではないのですが、寄せ集め感みたいなのはある程度なくなると思うんですよね。大曲と小品は交互に、とかそういうレベルでいいんで。

 

 どういう仕組みなんでしょうね。

 

それでは。

 ここ一か月ほど音楽へのモチベーションが非常に高い。ブルース・ブラザーズを見たからか、卒論からの逃避か、事情はよくわからない。

 

 ぼくが初めてベースに触れたのは17の冬で、ぼくのすべての音楽のルーツにYES(とELP)があるので、当然ベースはクリス・スクワイアに合わせてリッケンバッカー、それも4001Sにするはずだった。しかし、4003でさえ高校生にはあまりに高い代物で、結局ぼくはMonogramというメーカーのコピーモデル(通称偽リッケン)で我慢したのだった(しかも、Monogramはクリスのファン向けにそれっぽいカラーを純正で用意していたにもかかわらず入荷待ちで、待てばいいものをぼくは売れ残っていたオールブラックというバインディングから何からすべて黒のを選んだ。見た目的にはなんだかんだ満足している)。このモデルをぼくはその先3年間ずっとリッケンバッカーの代わりとして、ネック側のピックアップが動作しないにもかかわらず(原因不明。配線はちゃんとしていたが、セレクターの問題か?)、使い続けていたのだった。と言っても、ぼくは当時本職をキーボードだと思っていたから、あまり練習に時間は割かなかった。教材には前田JIMMYさんのピック弾き練習帳を使っていたが、あれはベース初心者に向けて書かれた本ではなかった(ので、むしろちゃんとやり始めた今役に立っている)。

 さて、大学生になり、バイトを1年間頑張って、ようやく去年の四月、リッケンバッカー4003Sを新品で買えるくらいのお金がたまった。そこで問題は起きる。ぼくはMinimoogを買うときにクロサワ楽器さんに大変なご恩があったので(わざわざいろんなところを探し回って、展示品だったラスト1台を見つけてくれた)、ベースを買うときも当然クロサワ楽器にしようと思い、ウェブサイトに行った。すると、新品のリッケンバッカーより二万円ほど安い値段で、4001V63なるベースが出ていた。4003にはないホースシューピックアップはまさしくクリスのそれ、クリス・スクワイアモデル(4001CS)は買えないにしても、このベースは限りなくそれに近い。しかも一応21世紀製。怖かったので一応店頭に行き、何回か弾いて、購入を決めた。このベースは中古の割に金属部分がとても綺麗だったが、問題点もいくつかあって、まず塗装がへたっているし、指板は汚れているし、そもそもクリアが吹いてあるはずの指板がなんかくすんでいる。前のオーナーがオイルフィニッシュにしたのだろうか?余計なことを。Rotosoundの弦を張ると弦高はめちゃめちゃ低いし、ハードカバーは永谷園の松茸のお吸い物みたいな匂いがした。要するに、金属部分以外手入れをしないオーナーだったのだろう。

 ともあれ、本物のリッケンが到着して、偽リッケンの不遇は始まった。まず気づいたのは、4001V63のスケール33と1/4インチに対して偽リッケンが34インチもあったことだ。フレット数も違って、本家20に対し偽は22。それでも最初は高い楽器で練習するのも気が引けたから、偽リッケンを使っていた。8月から先生のもとでベースを習うようになってからもしばらくは偽リッケンが主流だった。しかし音は断然違う。本物のリッケンの方は、アンプに直接つなぐだけでもう晩年のクリス・スクワイアの音が出る。ライブ映像で知っているあの音だ。ところが偽リッケンはそれほどリッケンらしい音は出ない。悪い音ではないが、なにぶんスケールもフレットの数も違うのだから仕方ない話ではある。演奏性も全然違って、ぼくは今のリッケンのほうがよく弾ける。特に4001V63はバインディングがないので、その分左手の自由度が高いのだ。それで、冬ごろにぼくの先生の別な生徒でリッケン女子なるものが現れてからは、練習もリッケンでやるようになり、哀れな偽リッケンはもともとのソフトケースを追い出され、かといってリッケンのハードケースには(スケールが違い)入らないので、野ざらしでしばらくほっとかれることになった。

 しかし昨日、ふと昔ピッコロベースに妙な興味を持っていたのを思い出し、偽リッケンを活用して試してみることにした。34インチのロングスケールを生かせるし、一応スルーネックなのでサステインもきく。オクターブ上はやりすぎな気がしたので、とりあえず5度上という奇妙なチューニングにした。弦は二つのセットから2弦と3弦を取り出して張っている。ゲージは70-55-42-32。これで不遇の偽リッケンも脚光を浴びるか。個人的にはBの弦が初体験なので、何ができるか楽しみだ。

 やがては貧弱なピックアップをシーモアダンカンに交換するとか、とにかくコピーゆえの奇妙な互換性を活かしてなんとか生き永らえさせたい。

 

 

 

 それでは。