もしも自分があのときああいう選択をしていたら、という想像は誰しもしたことがあると思うが、私の場合はよく中学一年生の頃を考える。中学に入ったとき、苦手だった算数は数学に名を変えたように思えた。算数の延長ならば自分には必要ないと、私は切り捨ててしまった。私の学校は中学一年生で習う最初の数学に命題論理と集合を置いていて、確かにこれは算数の延長ではなかったし、楽しくもあった。しかし、翌学期からはユークリッド幾何なるものが始まり、算数を難しく言ってみたという程度にしか感じられなくなってしまった。中学一年生の二学期にして数学のテストは14点を取った。
それ以来、私は嫌いだった算数の延長として数学を嫌い、数学が比重を増してくるにしたがってかつて好んでいた物理や化学も敬遠するようになった。そうした性向は大学の入学試験制度によっても助長された。私は数学が0点であっても大学に受かる自信はあったし、文系にも世間一般の理系と同じだけの数学をやらせる自分の高校は何を考えているのかわからなかった。
大学に入って、当初は哲学なんぞをやろうとしていた私だったが、ほんの偶然から一年の秋に科学史の授業を取った。たいそう穏やかな先生だったが、話には引き込まれた。そして、私は気づいた。科学は人間の営みなのだ。その点において、文学とも、歴史とも、哲学とも、違いはないのだ。
私は物理に挑戦することにした。いきなり数学をやるのはさすがに抵抗があった。とりあえず一番普通の力学から始めた。高校のときになんとなく聞いたことのある話が整理され、一問づつ計算問題ができるようになっていくのは端的に言って新鮮だった。
二年からは数学の授業と物理の授業に出席した。履修はしたものもしなかったものもあった。驚くべきことかもしれないが、このとき出会った先生方のお話はどれも非常に引き込まれる面白いものばかりであった。そして、私はまさに物理や数学を通して、自分が物理現象よりもそれに関わる人間に、人間に興味があるということを自覚した。物理学者のことを知りたいがためにその人の業績を理解しようとしていた節があった。ともあれ人間への関心は物理と数学が教えてくれたものであった。
私は物理の道には進まず、科学史の道は不真面目な学習態度によって閉ざされてしまった。そうして一学部生として文学研究などをやっているわけだが、私にはどうも、文学も物理も、根のところから違うというふうには思われない。ただ世界を記述する方法が異なっているだけで、目指す方向はそう遠くないのではないか。あるいは文学研究と物理も、それはよくわからない状態から首尾一貫性を引き出す作業なのではないか。もちろん、抽象化の度合いは恣意的であって、そんなものはまったくの幻想かもしれない。だが、物理や数学の先生方が、ただ物理や数学の話をしているだけで面白い話になるというのは、これと何か関係があるかもしれない。
私はときどき思う。誰でもある程度の努力(その量は人によるだろうが)を積めば、天才的な仕事とは言わないまでも、大学の理学部を卒業するくらいのことはできるのではないか。私もせめて人並みに数学や物理を勉強していれば、もしかしたら、と。
物理の世界はたくさんの不可思議にあふれている。文学の世界もたくさんの不可思議にあふれている。文学が物理に寄与するところは、せいぜい物理学者の気休めになる本を提供することぐらいかもしれないが、物理が文学に寄与するところも同じくらい小さく、同じくらい大きい。私の周りには何人か物理学科に行った者がいるけれども、彼らが(こちらの知識レベルを無視して)話してくれる専門的な話題は、つねに世界への新たな視点を提供してくれる。
私は一日一日、物理学の知識を忘れていく。しかし、いっとき物理を学ぼうと思い、せっせと失った分を取り戻そうともがいたことは、いまの自分を作るうえで重要だったと思っているし、もしいま、ノーリスクで物理をやり直す機会があるなら(また壁に立てかけられた板の問題から始めることになるだろうが)、迷わず飛びつくだろう。そういうわけで、私は今日も物理に取り組む人々を尊敬と羨望とアホだった十二歳の私の姿とを交えて眺めているのである。