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Lake's Bass Factory

当たり障りのないことを書くつもり。

 年明けで、親戚一同集まったときに、関係は遠いけど年齢は近い親戚と会うと話に困りますよね。まあぼくにそんな親戚はいないんですけど。Lakeです。

 人生、若いうちはけっこう自己紹介をする機会が多いと思うんですが、ありがちな趣味が「読書」ホンマかどうかは置いておいても、読書が趣味ってちょっと違わない?というのが今回の趣旨です。

 

 だって読書、本の最初から最後まで内容把握していられるって十分特殊能力じゃないですか?200ページもある本で最初の方に何が書いてあったかなんてもう忘れてるでしょ。しかも、それを一週間に何度もできるってこれ充分特技ですよね。一つ一つの作品に感想でも言えようものなら免許皆伝レベルですよ。これからは特技:読書の時代が来る。アイドルのプロフィールとか見ても、趣味じゃなくて特技のところに読書が出る。

 って考えていくと、案外趣味にカテゴライズされているものは特技なんじゃないか?って思えてくるわけですよ。たとえば映画鑑賞。本は最悪忘れても読み返せますけど、映画館で映画を見ていて最初の方忘れたらもう詰みますよね。「あれ、これ何の伏線だっけ?」とかなったら悲しいし、それを気にしだした段階でまったく映画の内容が入ってこなくなるという「リスニングの試験現象」が起きて本当の最悪になってしまいます。

 

 特技を趣味と書くのは謙遜なのか、それとも「金になるものは特技、ならないのは趣味」みたいな切り分けがあるのかはわからないですが、何にせよそれをできない人にとっては何事も特技ですよね。読書も映画鑑賞も特技。ぼくの特技は挙動不審になって一時間以上ベッドの中にいるのに眠れないことです。

 

 アー

 最近いろいろなことが襲いかかってくるので、もはや狂人になるほかないと感じて飛び跳ねたり叫んだりするようになりました、Lakeです。

 電車の中でたまにクソデカいため息を吐いてたり、よくわからないことを口走っている人がいますが、もうそんな感じですよね。音楽がなかったら死んでたな、というのを冗談抜きで実感しています。合法的に叫べる、体動かせる、リズム刻める。アー

 

アー

 

アゥ アアーア

 

アウェ

 

 むなしい。

 ぼくの専門は1930年代のイギリス文学である。ところが、舶来品ばかりいじっていても仕方ないということで日本の小説を読むこともある。

 大学に入って2年近くも経ったある日、突然そんなことを思って川端康成『伊豆の踊子』(新潮文庫)を読んだ。当時のぼくは主人公と非常に似た状況にあり、違うのはただ伊豆に旅行をしていないのと、制服を着て出歩くことがないことくらいだった。奇妙な一致に驚いたのもあってか、ぼくは川端作品をけっこう読んだ。芥川も読んだ。いろいろ読んだ。

 しかし、読むのはかえってそうした年季の入った小説ばかりになり、そのまま今年の十二月になった。ぼくはいい加減読まなくてはというよくわからない義務感と、今まで一作品も読んでないのに一年に二回くらいは名前を口にしていた罪悪感から、多和田葉子の『献灯使』を買って読んだ。これほど同時代的な小説を読むのは小学生以来だった。

 ぼくは竜宮城から帰ってきた浦島太郎のようにきょろきょろしてしまった。そこにはぼくの生きる世界、小説や文学とは切り離されているのが当然だと思ってきた世界があった。2018年日本と1934年イギリスの間の隔たりはあまりに大きい。

 ところが考えてみると、小説は、あるいは文学は、あるいはあらゆる創造物は、それぞれの「生きる世界」を反映しているに違いないのだ。1934年の小説は、きっとぼくが感じるのと同じような、あるいは違うような、ある種の実感を持って読まれたに違いないのだ。この世界の誰も追体験することはできないが、きっとそうなのだ。

 そしてそれは、つまり作品を同時代的に読むことは、同時代人の特権なのだ。100年後には、人々は100年後にも残った2018年の作品しか読むことができず、同時代的なコードはすべて右肩の小さな数字と巻末の細かい字で書かれた注へ分解してしまう。

 同時代的な読みが正しい読みでないということは当然である。そもそも〇×的な正しさなどこの世界には存在しないし、そうでなくても後代の読みがよりよいということはありうる。しかし、ぼくが80歳になったとき、ぼくは60年後の読みを今日のこの日の読みと比べながら楽しむことができる。もちろん、たとえば100年後の人は100年後にしかない読みをできるという特権がある。

 ぼくはきっと、なにか研究とは違った形で小説に参加したのだ。何を当然なことを、と思うかもしれない。当然、小説は同時代的な価値観や理念を反映しているのだ、と。それでも、ぼくは10年に渡る歴史的寄道のあとで、このことを実感した。感じたのだ。

 

 一言で言えば、ぼくはうれしいのだ。たのしいのだ。読むことが、書くことが、考えることが、うれしくて、たのしい。まるで霧が晴れたみたいに。

 

多和田葉子の作品については機会があれば。

 

 

それでは。

 イチキュッパでベースを買った。Epiphone Embassy Special Ⅳという機種で、塗装など外見は綺麗。1ピックアップでコントロールはトーンとボリュームの二つだけ、ガリは特になし(ボリュームポットの取り付けが甘いくらい)。ネックの反りも柔らかなカーブでおそらく問題なし。これでお値段イチキュッパ。そう、1980円。

 なぜ1980円なのか?理由は簡単、ペグがないのだ。買ったとき、ぼくは思った。ペグくらいサウンドハウスで注文すればいい。

 しかしこのベース、非常に特殊なペグを使っていたらしい。現状開いているネジ穴に合うペグはない。オリジナルの画像を見てみると、クローズドギアのよくわからない、ツマミ部分が三角形に似たロトマティック的なやつで、ギア部分はクルーソンのような、折衷的なデザインになっている。なるほど、1980円になるわけだ。最近のブックオフは勉強している。

 さて、掃除&ペグ取り付けの後転売というプランは潰えた。仕方ないのでペグをあるもので替えて最低限演奏性を確保するしかないが、ここでもう一つ問題がある。前オーナーはどうしてペグだけ取り外して売ったのかということだ。

 普通、電装含めフル稼働するベースをペグだけすべて取って売るなんてことがあるだろうか。それならペグごと売った方がいい。ということは、電装にも問題があるのだ。しかしここはシングルピックアップ、別に電装が死んでいたところで交換はたやすい。実際裏蓋を開けると、謎のコードが二本切れている。

 ピックアップはなぜかプレベと配置が逆のハムバッカーで、プレベとの互換性はまずないだろう(情報求む)。どんな音がするのかはまったくの未知数だ。一応開けてみるとBelcatなるメーカーのピックアップらしいことはわかった。

 さて、いろいろ改造しようと思ってサウンドハウスを漁っているうちに、ぼくはある事実に気がついた。前回、偽リッケンの改造にかかった費用は2万円ほど。今回はペグ代があるのでもっといくだろう。それに金を使うくらいならエフェクターを揃えた方がいいし、改造に時間を使うくらいならベースを練習した方がいい。

 ということで、金銭的余裕ができるまでプロジェクトは凍結。しかし見た目はまあまあいいのでスマホが直ったら写真をアップロードしようと思う。

 

 

それでは

  「三つの愛と、殺人-芥川 太宰 安吾-」なる朗読劇を見た。朗読されたのは、「藪の中」「駆け込み訴え」「夜長姫と耳男」という短編三つ。

 結論から言えば、私には微妙だった。演技は素晴らしかった。特に伊東健人の演技は、言い間違いさえ飲み込んでしまうほどの力に溢れていて、私は圧倒されてしまった。要するに問題は構成と演出である。

 「藪の中」が証言形式を破って、たとえば多襄丸の証言内で真砂の発言(とされるもの)を真砂役が読む、というのは、ちょっと時間はかかったものの、まあ飲み込めたのでいいとする。しかしそのつぎ、「駆け込み訴え」とのつなぎ部分に年表のようなものを挟んだのはなんだったのか。関連性が見えない。「駆け込み訴え」でイエス・キリスト役が女性(夏川椎菜さん=ナンス)なのはなぜなのか。ユダの独占欲が弱められているのはなぜなのか。ユダが突然メロス化したのはなんだったのか(西日が沈もうが沈まなかろうが、密告には関係ないではないか)。そのあと、「夜長姫と耳男」との間にも年表が入ったのはどういうことなのか。原爆のくだりはなんだったのか。年表が最後に逆行したのはなんだったのか(「夜長姫」は一九五二年初出、太宰の死は一九四八年)。三つの短編、作者も、時代も異なるそれらを無理に関連付ける必要はない。まして、結局一貫性のないものになるのなら、である。

 こうしたモヤモヤのなかでなにより私を苦しませるのは、ある程度まで上のような受容は私に責任があるということである。私の方が、おそらく一貫性を見つけられていないのである。私の方が、私の読みに囚われて、深作健太氏の演出に対し違和感を覚えているのである。私の方が、深作氏の読みと表現を、うまく読み取れていないのである。そう思うと、なにやら悲しくなってくる。悲しい。以上。

 余談。「夜長姫と耳男」は、前日に読んだにもかかわらず、すぐにその虜になってしまった。その緊張感、創作と生と死、夜長姫の透明さ、魅力は挙げればきりがない。耳男を先述の伊東健人が演じたのは、最高の配役だったといえる。ナンスの夜長姫は、透明感という意味ではまあまあ、まあ、という感じ(俺は何様なんだ、と自分でも思う)。でも、いくら終演後とはいえ、出演者の一人が夜長姫を「サイコパス」と呼んだのはなんか悲しかったなあ。なんか、これが「キャラ」(≠登場人物)ってやつか、と思ってしまったよ。うーん、うーん。

 余談二。私はナンスを間近で見られたのでそれはよかった。手短に言うと、私はナンスのファンである。尊敬しているし、ライバル意識(?)みたいなものもある。もちろん応援している。

 

 

うーんうーん。

 

 

それでは