8月31日(月)
今日は藻岩山に行ってきました。弾丸ツアー。
本当は一人でささっと行ってこようと思っていたのですが、前日に娘が「起きられたら私も行こうかな」なんて言うので、娘を待って予定より1時間以上遅れてのスタート。
地下鉄で西18丁目駅まで行き、そこで市電の一日乗車券を購入。(紙なので、自販機では買えません)
一度乗り降りすると230円の市電が、何度乗り降りしても570円。
往復だけなら必要ないのですが、ちょっと寄り道をたくらんでいたので、一日券にしました。
今の時期、夜景を見るお客さんのためには市電の停車場近くから無料のシャトルバスが出ているのですが、昼間は歩いてロープウェイの乗り場を目指さなくてはなりません。
これがまあまあの急傾斜で…。
でも何とかロープウェイに乗れました。(ロープウェイの窓から)
山頂を見下ろしている私は今、どこにいるのでしょう。
石狩の海の方まで見渡せます。
南区の山の方。多分この中にクマが結構いると思われ…。
写真右側の緑は中島公園、左側の緑は北大キャンパス。
青く囲ったところは北広島のエスコンフィールド、手前は札幌プレミストドーム。
ロープウェイの中で流れている『山のロープウェイ』の楽譜と、作詞作曲の山木康世さんのサイン。
さて、私がわざわざ藻岩山に行ったのは、ロープウェイに乗るためではございません。
今まで道内の高い山に車で行っては探知機で探しても、今まで一度も反応があった試しのない山デコのピクミンが、ここ藻岩山でゲットできると聞いたからでございます。
ええ、反応は上々でしたが、一度でゲットできるほど簡単ではなく、3個ほど探知機を使いました。
3個ですんでよかったよ。
とりあえず、藻岩山は山でした。
もうひとつたくらんでいたのは、お昼ご飯のこと。
北海道の三大回転寿司と言えば、「花まる」「トリトン」「なごやか亭」ですが、最近道内では第4の勢力になりつつある「まつりや」さん。
全国的な知名度が上がる前に行っておきたかったのですが、10さんは「車で行くと飲めないから嫌」と言うので(そのくせ公共の交通機関で出かけるのも嫌がる)、10さん抜きで娘と二人で食べてきました。
本日の5貫盛り。中とろ、エンガワ、赤エビ、蒸し穴子の柚子胡椒のせ、ネギトロ軍艦巻き。
追加で赤貝、つぶ貝、真鯛もいただく。
実はここ、回転してませんでした。
タッチパネルで注文しても、店員さんが持ってきてくださる。
外国人の方には英語で対応されていました。
ネタは大きいけれどシャリは小ぶり。
そして食べてる時は気づかなかったけれど、シャリがほんのりぬくい。
これ、大好きだった厚田の「かねとも寿司」さんで食べたとき以来の感覚。
ぬくいけどネタはひんやり、そして酢はきつくない。
めっちゃ美味しいお寿司でした。
道外の人にはバレたくないんだけど…千原ジュニアさんのサインがありました。
バレとるやないかい!
本日の読書:虚栄の市 六 サッカレ
前巻から引き続き、貧窮生活から抜け出たアミーリャの幸せな日々。
それは、彼女の夫だったヂョージ・オズバンがもたらしたものではなく、ドビン少佐の今までの数々の好意による行いからだということが、ようやくアミーリャに伝わったのだ。
そういった意味では、老オズバン氏が死の直前に彼女に詫びをいれたのは幸いだった。
しかし、それでもなお、アミーリャのドビンに対する態度はいかがなものかと思わざるを得ない。
たかが人よりずぬけて背が高く、顔が不細工で、手足が大きすぎるからと言って、自らの恩人をそうまで軽んじるか?
アミーリャよ、あんたは善い人なのではなかったのか?
そしてレベッカの方は、過去の悪行の報いと本人の怠惰な性格ゆえに、落ちるところまで落ちてしまう。
彼女の過ちは、倫理観の持ち合わせがなかったのは別として、周囲の男どもを軒並み手なずけた時に、女性陣に対してフォローを怠り、すべてを敵に回してしまったことだ。
片方が上り調子の時は片方が落ちぶれる。
レベッカとアミーリャの人生が、ひょんなことからまた交差した時、アミーリャはレベッカをとりドビンと決別してしまう。
作者がアミーリャのことを、ずっと愚かだと言っていたが、今回はまさにその通り。
しかし失ってはじめてわかる、ドビンの存在の大きさ。
レベッカは、ヂョージが彼女に当てたラブレターを見せ、アミーリャが彼に捕らわれる必要がないことを教え、彼女の背を押してやったのだが。
愚かなアミーリャは、ドビンを得ると同時にレベッカと決別。
アミーリャたちはクローリー家の近くに住み、彼らと親しく付き合うが、レベッカのことはガン無視。
レベッカはアミーリャの兄のヂョスの面倒をみつつ、金づるとして利用。
結局ヂョスの死後、アミーリャともどもレベッカも彼の遺産を相続する。
時が過ぎ、貧しい人たちのための慈善小間物市でレベッカが売り子をしているのを見て、 逃げるようにその場を去ったのはアミーリャたちの方だった。
アミーリャは悪いことは一切していないが、何事に対しても受け身で、自分と子どもの生活ひとつ、誰かの世話にならずにはやっていけない。
レベッカは悪いこともたくさんしたし、敵もたくさん作ったけれど、自分の力で生きてきた。
語学、領地経営のノウハウ、歌、ピアノ、料理、ダンス、絵、彼女の才能はもって生まれたものもあるだろうけれど、努力のたまものだって相当にある。
社会の底辺で生まれ育ったからこそ、上流社会への憧れと、見返してやりたい気持ちが強すぎたのであって、最初っからヂョスと結婚していたら、結構いい奥さんになったかもしれない。
愛情はなかったかもしれないけれど。
旧仮名遣いには読むのに苦労させられたし、時代的な偏見など突っ込みどころは多かったけれども、楽しい読書でした。
カバー折返しより
『作者は最後に次のように記す――ああ!空の空なるかな!われわれのうちの誰がこの世において幸福であるか?果たして誰が満足しているか?(完結)』前巻から引き続き、貧窮生活から抜け出たアミーリャの幸せな日々。
それは、彼女の夫だったヂョージ・オズバンがもたらしたものではなく、ドビン少佐の今までの数々の好意による行いからだということが、ようやくアミーリャに伝わったのだ。
そういった意味では、老オズバン氏が死の直前に彼女に詫びをいれたのは幸いだった。
しかし、それでもなお、アミーリャのドビンに対する態度はいかがなものかと思わざるを得ない。
たかが人よりずぬけて背が高く、顔が不細工で、手足が大きすぎるからと言って、自らの恩人をそうまで軽んじるか?
アミーリャよ、あんたは善い人なのではなかったのか?
そしてレベッカの方は、過去の悪行の報いと本人の怠惰な性格ゆえに、落ちるところまで落ちてしまう。
彼女の過ちは、倫理観の持ち合わせがなかったのは別として、周囲の男どもを軒並み手なずけた時に、女性陣に対してフォローを怠り、すべてを敵に回してしまったことだ。
片方が上り調子の時は片方が落ちぶれる。
レベッカとアミーリャの人生が、ひょんなことからまた交差した時、アミーリャはレベッカをとりドビンと決別してしまう。
作者がアミーリャのことを、ずっと愚かだと言っていたが、今回はまさにその通り。
しかし失ってはじめてわかる、ドビンの存在の大きさ。
レベッカは、ヂョージが彼女に当てたラブレターを見せ、アミーリャが彼に捕らわれる必要がないことを教え、彼女の背を押してやったのだが。
愚かなアミーリャは、ドビンを得ると同時にレベッカと決別。
アミーリャたちはクローリー家の近くに住み、彼らと親しく付き合うが、レベッカのことはガン無視。
レベッカはアミーリャの兄のヂョスの面倒をみつつ、金づるとして利用。
結局ヂョスの死後、アミーリャともどもレベッカも彼の遺産を相続する。
時が過ぎ、貧しい人たちのための慈善小間物市でレベッカが売り子をしているのを見て、 逃げるようにその場を去ったのはアミーリャたちの方だった。
アミーリャは悪いことは一切していないが、何事に対しても受け身で、自分と子どもの生活ひとつ、誰かの世話にならずにはやっていけない。
レベッカは悪いこともたくさんしたし、敵もたくさん作ったけれど、自分の力で生きてきた。
語学、領地経営のノウハウ、歌、ピアノ、料理、ダンス、絵、彼女の才能はもって生まれたものもあるだろうけれど、努力のたまものだって相当にある。
社会の底辺で生まれ育ったからこそ、上流社会への憧れと、見返してやりたい気持ちが強すぎたのであって、最初っからヂョスと結婚していたら、結構いい奥さんになったかもしれない。
愛情はなかったかもしれないけれど。
旧仮名遣いには読むのに苦労させられたし、時代的な偏見など突っ込みどころは多かったけれども、楽しい読書でした。









