7月26日(日)
雑居ビルのトイレの案内板。
男の人、首がもげてますが…。
本日の読書:街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみち ほか 司馬遼太郎
『東北の南部人を考える「陸奥のみち」を満喫したあと、南に進路を転じ、「肥薩のみち」を歩いた。「われわれは田原坂に来てしまったのである」とつぶやく著者は、ちょうど大作の『翔ぶが如く』を連載中だった。「薩摩」の人間風土は書くのは大変なんですよと、正直に読者に悩みを打ち明けている。』
目次
・陸奥のみち
・肥薩のみち
・河内みち
陸奥(八戸~青森)、肥後と薩摩(田原坂~蒲生郷)、河内をゆく。
青森は多少土地勘があるので、ルートを脳内の地図でたどりながら読んだが、九州はまったくわからないので、スマホで地図を呼び出して確認しながら読んだ。
青森県は私が子どもの頃でもまだ「南部」と「津軽」の意識が強くて、うかつに相手を褒めてしまうと周りの大人たちから注意されたものだった。
南部藩の一部だった津軽が、秀吉に取り入って独立し、家格も南部の上とされたことが南部からすると許せないのだそうだ。
そういう因縁というのは、何年、何世代くらいたたないと解消しないのだろう。
自分の生まれるはるか前の出来事を恨んだり憎んだりして、それを子孫に伝えていくというのは、殺伐たる思いがするけれど。
肥薩の方も、薩摩の島津を抑えるための熊本城であり、その思いがあるから西南戦争で西郷たちは熊本城にこだわったのだという。
なるほど鹿児島から一気に船で大阪なり江戸に打って出てもいいし、まずは九州北部を鎮圧して足掛かりにしてもよかったのだ。
というか勝機はそちらにしかなかったはずだ。
それでも、熊本城を越えて勝ち上がっていくという、幼いころから刷り込まれたイメージを簡単に共有できてしまったことが、敗因だったんだな。
カバー裏より
『東北の南部人を考える「陸奥のみち」を満喫したあと、南に進路を転じ、「肥薩のみち」を歩いた。「われわれは田原坂に来てしまったのである」とつぶやく著者は、ちょうど大作の『翔ぶが如く』を連載中だった。「薩摩」の人間風土は書くのは大変なんですよと、正直に読者に悩みを打ち明けている。』
目次
・陸奥のみち
・肥薩のみち
・河内みち
陸奥(八戸~青森)、肥後と薩摩(田原坂~蒲生郷)、河内をゆく。
青森は多少土地勘があるので、ルートを脳内の地図でたどりながら読んだが、九州はまったくわからないので、スマホで地図を呼び出して確認しながら読んだ。
青森県は私が子どもの頃でもまだ「南部」と「津軽」の意識が強くて、うかつに相手を褒めてしまうと周りの大人たちから注意されたものだった。
南部藩の一部だった津軽が、秀吉に取り入って独立し、家格も南部の上とされたことが南部からすると許せないのだそうだ。
そういう因縁というのは、何年、何世代くらいたたないと解消しないのだろう。
自分の生まれるはるか前の出来事を恨んだり憎んだりして、それを子孫に伝えていくというのは、殺伐たる思いがするけれど。
肥薩の方も、薩摩の島津を抑えるための熊本城であり、その思いがあるから西南戦争で西郷たちは熊本城にこだわったのだという。
なるほど鹿児島から一気に船で大阪なり江戸に打って出てもいいし、まずは九州北部を鎮圧して足掛かりにしてもよかったのだ。
というか勝機はそちらにしかなかったはずだ。
それでも、熊本城を越えて勝ち上がっていくという、幼いころから刷り込まれたイメージを簡単に共有できてしまったことが、敗因だったんだな。

