7月19日(日)
高級お肉を食べた日のこと教えて!
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三重県のとある町に嫁いでいった同期の結婚式は、松阪市で行われました。
北海道から参加する私は、10さんと一緒に前泊しました。
松阪牛の美味しいお店ということで「和田金」さんを10さんの友だちが予約してくれたので、初めての高級お肉をそこでいただいたのでした。
二人で行って、すき焼き一人前としゃぶしゃぶ一人前というみみっちい注文をし、オプションでマツタケ1本。
庶民なので、安い肉でも山盛り食べられれば嬉しいのです。
が、高級なお肉は、少々物足りのうございました。
しかも肉を先に食べて、肉の残り香で野菜を食べるという…。
わたくし、美味しいものは最後に食べたい派なので、美味しいお肉を食べた割にはちょいちょい残念な気持ちにさせられるという、生まれついての庶民を再確認したわけです。
そしてマツタケ。
一本を縦に4つに割りまして、すき焼きに投入されました。
普通ひとり2切れずつですね。
美味しいものを最後まで取っておく私は、3切れめを無造作に口にする10さんを止めることができず、意に反して最後じゃない時に唯一残ったマツタケを口にしたのでした。
それでも、10さんが美味しいと思ったのならそれでいい、と当時の私は思ったのです。
なのに奴は帰る道すがら、「美味しかったね。でもマツタケ入ってた?」と言いやがったのです。
食の恨みは一生ものですからね。
もう40年近くネタにしていますが、まだまだ恨んでいきますよ。(明るい後ろ向き宣言)
本日の読書:目の見えない白鳥さんとアートを見に行く 川内有緒
全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さんについて、以前テレビで拝見したことがあった。
穏やかな表情と話し方をする方で、絵の前に立ち、アテンドする人に「何が描いてありますか?」「それはどのようなものですか?」と質問をしても、その答を決して急かすことなく、背筋を伸ばした姿勢で笑顔という柔らかくも芯のある白鳥さんそのものの姿で待っている人だった。
最近私がアートに興味を持ったのは、言葉に寄らない感動を得たいと思ったからだ。
どうしても、言葉に対する比重の高い私の感想は、言語化することによって感動が固定化されてしまうようで、もっと直感的な感動を!と。
結局堅苦しいのだが。
しかし、白鳥さんとアートを見に行くと、言語化=固定化にはならないのだ。
同じものを見て「アサリに見える」「いや、セイウチじゃ?」「猫だよね」と言葉で説明しているうちに見え方が変わってくる。
白鳥さんと二人で、または何人かの人たちとアートを見に行くことで、対象物をよりしっかり見ようとするし、そうすると解釈は一様ではない事に気付くのかもしれない。
これは読書とも似ているなあと思った。
ひとりで読んでいる時に感じるものが、何人かと感想を述べあうことで違う面を見せることがある。
そうか、言語化=固定化ではないのか。
”感想や解釈が同じでないからといって、相手が間違っているわけではない。むしろ違いがあるからこそ発見があり、自分の海域が豊かになる。”
それは、白鳥さんの鑑賞の仕方からも言えるのだと思う。
彼は、アートの技法のことや制作当時の作者の境遇や、もっと言えば公式の作品テーマを知りたくてアートを鑑賞しているわけではない。
それはコミュニケーションツールであり、アートについて語る言葉や空気感が、白鳥さんにアートだけではなく同行者について、また自分自身について考えるためのよすがになるのだ。
ただ、いくつか著者について気になった点がある。
美術館で、白鳥さんともう一人の同行者と、一枚の絵の前で語り合っていた時、「ずっとうるさいんですけど」と見知らぬ女性に言われた時のことだ。
著者はそれに対して、「ここはあなたの専有物ではないですよ」と心の中で反論するのだが。
その女性も著者たちに対してそう思ったから、うるさいと言ったのでは?と私は思った。
その時の状況はわからないけれど、うるさいだけではなく、一枚の絵の前にずっと立っていられると、私などはちょっとイラっとする。
もちろん著者たちは小声で会話をしていたと思うけれど、美術館によっては声が響いて、うるさいと思うことはよくある。
「あんたの解釈を聞きたいわけじゃないんだよ~」って思うことが。
「夢の家」という美術作品の中にとまるときも、家の中ではアルコール禁止というのに気づかず、お酒を持ち込んで飲んでいるが、そういう禁止事項というのは明示されているものだと思うので、気づかなかったで許されることなのか。
そして、ここは夢を見て記録にとどめるために、結構厳格に入浴の仕方から睡眠準備まで定められているのだけど、暑いからといって定められた服装を脱ぎ捨て夢も見ないで熟睡している。
なんというか、自分の正しいに自信があるのか、割りとルールを違反しても平気な人なんだな、と思った。
アートなので、「自由な心」が大切なのかもしれない。
私が堅苦しすぎるのかもしれない。
その辺をうまく呑み込めなくて、いい題材だったはずだけど、読後感は微妙。
Amazonより
『「白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!」という著者の友人マイティの一言で、「全盲の美術鑑賞者」とアートを巡るユニークな旅は始まりました。視覚の不思議、アートの意味、生きること、障害を持つこと……などが白鳥さんや友人たちとの会話から浮かび上がってきます。そこに白鳥さんの人生、美術鑑賞をする理由などが織り込まれて──。軽やかで明るい筆致の文章で、美術館巡りの追体験を楽しみながら、社会を考え、人間を考え、自分自身を見つめ直すことができる、まったく新しいノンフィクションです。開高健ノンフィクション賞受賞後第一作!』全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さんについて、以前テレビで拝見したことがあった。
穏やかな表情と話し方をする方で、絵の前に立ち、アテンドする人に「何が描いてありますか?」「それはどのようなものですか?」と質問をしても、その答を決して急かすことなく、背筋を伸ばした姿勢で笑顔という柔らかくも芯のある白鳥さんそのものの姿で待っている人だった。
最近私がアートに興味を持ったのは、言葉に寄らない感動を得たいと思ったからだ。
どうしても、言葉に対する比重の高い私の感想は、言語化することによって感動が固定化されてしまうようで、もっと直感的な感動を!と。
結局堅苦しいのだが。
しかし、白鳥さんとアートを見に行くと、言語化=固定化にはならないのだ。
同じものを見て「アサリに見える」「いや、セイウチじゃ?」「猫だよね」と言葉で説明しているうちに見え方が変わってくる。
白鳥さんと二人で、または何人かの人たちとアートを見に行くことで、対象物をよりしっかり見ようとするし、そうすると解釈は一様ではない事に気付くのかもしれない。
これは読書とも似ているなあと思った。
ひとりで読んでいる時に感じるものが、何人かと感想を述べあうことで違う面を見せることがある。
そうか、言語化=固定化ではないのか。
”感想や解釈が同じでないからといって、相手が間違っているわけではない。むしろ違いがあるからこそ発見があり、自分の海域が豊かになる。”
それは、白鳥さんの鑑賞の仕方からも言えるのだと思う。
彼は、アートの技法のことや制作当時の作者の境遇や、もっと言えば公式の作品テーマを知りたくてアートを鑑賞しているわけではない。
それはコミュニケーションツールであり、アートについて語る言葉や空気感が、白鳥さんにアートだけではなく同行者について、また自分自身について考えるためのよすがになるのだ。
ただ、いくつか著者について気になった点がある。
美術館で、白鳥さんともう一人の同行者と、一枚の絵の前で語り合っていた時、「ずっとうるさいんですけど」と見知らぬ女性に言われた時のことだ。
著者はそれに対して、「ここはあなたの専有物ではないですよ」と心の中で反論するのだが。
その女性も著者たちに対してそう思ったから、うるさいと言ったのでは?と私は思った。
その時の状況はわからないけれど、うるさいだけではなく、一枚の絵の前にずっと立っていられると、私などはちょっとイラっとする。
もちろん著者たちは小声で会話をしていたと思うけれど、美術館によっては声が響いて、うるさいと思うことはよくある。
「あんたの解釈を聞きたいわけじゃないんだよ~」って思うことが。
「夢の家」という美術作品の中にとまるときも、家の中ではアルコール禁止というのに気づかず、お酒を持ち込んで飲んでいるが、そういう禁止事項というのは明示されているものだと思うので、気づかなかったで許されることなのか。
そして、ここは夢を見て記録にとどめるために、結構厳格に入浴の仕方から睡眠準備まで定められているのだけど、暑いからといって定められた服装を脱ぎ捨て夢も見ないで熟睡している。
なんというか、自分の正しいに自信があるのか、割りとルールを違反しても平気な人なんだな、と思った。
アートなので、「自由な心」が大切なのかもしれない。
私が堅苦しすぎるのかもしれない。
その辺をうまく呑み込めなくて、いい題材だったはずだけど、読後感は微妙。

