7月3日(金)
写真を撮り忘れたのですが、今日のお昼は一人でパスタを食べに行きました。
ひとり飯の時の常として、ずっと本を読んでいたわけです。
席に案内されたときは、周りを見る余裕がありませんでした。
メニューを見て注文してから食べ終わるまで、ずっと読書。
さて、食べ終わって帰ろうと顔を上げたとき、正面の壁にたくさん額装されて飾られていたのが、サム・トフトの絵でした。
我が家は持ち家とはいえマンションなので、なんとなく壁に釘を打ったり画鋲を刺したりができません。
壁紙はざらざらした感じなので、弱めの両面テープでポスターを貼っても、すぐに落ちてきてしまう。
もう長年住んでいるのだから、画鋲ぐらいいいような気がするけど、勇気がない。
だから、いつか引っ越す先の家にはピクチャーレールがあるといいなあと思っています。
そしたら飾りたい絵の筆頭がサム・トフトなんだよね。
世界は広くても、自分も捨てたもんじゃない、と思える作品たち。
会計の時にお店の人に「全部サム・トフトなんですね」と言ったら、「御存知ですか?」と驚かれました。
デザイナーさん任せの壁だったようで、店員さんたちは誰も絵の作者のことなど気にしたことがなかったそうです。
でも、私の好きなセレクトショップでも、コーチャンフォー新川店でも、サム・トフトの絵は扱っているので、そこそこ有名で人気あると思うんだけどなあ。
本日の読書:破船 吉村昭
カバー裏より
『二冬続きの船の訪れに、村じゅうが沸いた。しかし、積荷はほとんどなく、中の者たちはすべて死に絶えていた。骸が着けていた揃いの赤い服を分配後まもなく、村を恐ろしい出来事が襲う……。嵐の夜、浜で火を焚き、近づく船を座礁させ、その積荷を奪い取る――僻地の貧しい漁村に伝わる、サバイバルのための異様な風習”お船様”が招いた、悪夢のような災厄を描く、異色の長編小説。』
前浜でささやかな漁をし、浜に流れ着いた貝や海藻を拾い、浜と山の間に小さくある平地でちっぽけな畑を作り、たった十七戸しかない村の生活。
食べていけない家は、家族の誰かを年季奉公に出す。売る。
村のたった一つの望みは、村のそばで船が座礁することだ。
そうしたら、船の積荷を奪い取り、船を解体して木材や釘などを調達でき、運が良ければ米を手にすることもできる。
しかしそんな幸運は、ここ数年全くなかった。
伊作の家では、父親が3年の年季奉公に出た。
まだ10歳を少し超えただけの伊作が、母と二人で小さな弟と妹たちを食べさせていかなくてはならない。
でも、まだ子どもなのよ。
気持ちはあっても、力も、漁の技術も知識もない。
でも、「働け」と、母は伊作を殴る。
父が帰って来るまで、ちゃんとみんなが食べて行けるように。
”お船様”はもちろん犯罪だ。
しかし、それは村に代々伝わる大切な風習でもある。
他の村にばれないように、息をひそめながらひっそりと暮らす村人たちの、生きる喜び・楽しみはどこにあるのか。
まるで止まっているかのようにゆっくりと時が流れる。
季節ごとに漁の対象は変わる
いか、さんま、たこ。
山の色づく様子、海や空の色、浜で貝などを拾う女たち。
精密に描写される風景から、この作品のリアリティーが立ち上ってくる。
多分江戸時代なんだろう。
村で読み書きができる人がいるのかどうかもわからない。
何かあったら、片道3日かけて隣村に行って、世間の様子をうかがってくるしかない。
その知識のなさが、判断を過つ。
村にゆとりを与えてくれる”お船様”が、災いを運んでくる存在になった時、村人たちにはなすすべもなかった。
真面目に、懸命に働いていても、食べていけない。
そんな暮らしを丁寧に、ゆっくりと、冷静に書ききった作品。
子どもが背負うには重すぎる現実。




