6月30日(火)
今年に入ってから、何度か調子が悪くてディーラーに見てもらっていた我が家の車。
リコールになりました。
やっぱりね、って感じです。
だって、普通に車に乗ろうとするだけで、バッテリーあがるんだもの。
10さんは素直な良い子だから「半ドアに気づかなかったのかもしれない」って反省してたけど、半ドア防止にライトがついたり音が鳴ったりするはずなんだよ。
「気づかなかった」レベルの話じゃないと思うんだけど。
「ディーラーでじっくり見てもらって」って言ったら、「見てもらったけど、特に異常はなかったからやっぱり半ドアだったんだよ。あと、最近長距離を走ってないから、バッテリーが上がりやすくなるんだって」って、丸め込まれて帰ってきた。
冬場は確かに長距離を走らないけれど、それは毎年のことだし、近場の買い物や用足しにしょっちゅう車には乗ってるんだよ。
それに比べたら、前の車は10年以上乗っていたけど、そんなこと全然なかったよ。
10さんが単身赴任の時なんて、月1くらいで私がエンジンかけたりしたけど、それでバッテリーが上がったことなんて一度もない。
「絶対おかしい。もしまたバッテリーあがったら、車処分しましょう。ついでに免許も返納しましょう」と言ったのは、3回目のバッテリー切れの時だったか。
ほら、やっぱり、車のせいだったじゃん。
経験則をなめんなよ。
我が家の初めての車も、5年くらい乗っていたら調子が悪くなって、しょっちゅう冷却水が蒸発するほどエンジンが熱くなった。
何度修理(有料)に出しても変わらないので、結局買い換えたら、数か月後にリコールになった。
どっちも、事故になる前に何とかできてよかったけれど、ディーラーの言うことを鵜呑みにするのはやめようと、決意を新たにしたのでした。
いつの間にやら夏の花。
アジサイの見ごろはこれからなり。
本日の読書:兄いもうと 鳥越碧
なんだか、もったりした文章だなあ。
かゆいところに手が届かない感じがもどかしい。
正岡子規と妹の律との、幼少期からの兄妹愛がテーマの本作。
けれども、律視点で書かれているため、「やさしいお兄ちゃん」「勉強がものすごくできる優秀なお兄ちゃん」「たくさんの人たちに慕われ尊敬されていたお兄ちゃん」の解像度が低すぎる。
律が直接兄のそうした姿を見ていられた時期は、実はそれほど多くない。
中学校に進学する升(のちの子規)は、3つ年下の律の目から見て「すごい」しかわからない。
ましてや中学を中退して上京してからの兄が、何を見て何を思いどう過ごしていたのかは、伝聞でおぼろげに知るだけだ。
女がいつまでも実家に残ることが許されなかった時代、律は二度結婚するが、二回とも相手に愛情を持つことはできなかった。
兄がすごすぎたから?
もしかしたら兄のことを、異性として好きなのかも?
いや、世間が狭いがゆえの、ただのブラコンじゃろうと私は思うが。
逆に四季の立場で考えてみると、幼いころから正岡家の復興を親戚中から託され、だからこそ甘やかされた部分もあったろうが、それは大変に重苦しく付きまとって離れない、人生の重荷だったのかもしれない。
東京に出てきてみれば、松山では知らなかった、文化的に刺激を受けるような楽しい生活があり、じっとりと自分の出世にしがみついてくるような家族がいないのは、なんとも人生が軽やかになったのかもしれない。
けれどそれは律の知ったことではないので、ここには書かれない。
ただただ、律が兄を慕う思いのみ。
重い。うざい。
もちろん二人の間には、家族として兄妹としての愛情が太く長く結ばれていたのはわかる。
その時々でそれが恨み節になったり暴言になったとしても。
だからこそ、これは律の視点ではなく、二人の身近にいる第三者の視点で書かれた方がわかりやすかったのではないかと思った。
例えば松山中学の頃から升を慕い続け、陰になり日向になりして升のことを家族ぐるみで支え続けた河東碧梧桐とかね。
そうすれば、上京後の升の姿も、文学仲間との友情や切磋琢磨の日々なども、もう少し解像度高く描けたはずだ。
そして作中にも書いてあったとおり、家族だから言えないようなことも、彼は気づいて受け止めていたのだから。
小説という形で書かれた本作は、律の思いに左右され過ぎていて、正岡子規の姿はあまり見えてこない。
でも、普通の兄いもうとではなく、子規と律をモデルにした小説なのだから、升は子規でもなければならないはず。
評伝があまたある中で小説である意味を考えると、もう少し書きようがあったのではないかと思う。
Amazonより
『正岡子規と妹、律。究極の兄妹愛だった。 病に倒れた俳人・正岡子規を最期まで支えたのは、妹の律だった。生と死、慈愛と禁断──正岡家のすさまじい闘病の日々を、大胆な視点から描いた長編小説。』なんだか、もったりした文章だなあ。
かゆいところに手が届かない感じがもどかしい。
正岡子規と妹の律との、幼少期からの兄妹愛がテーマの本作。
けれども、律視点で書かれているため、「やさしいお兄ちゃん」「勉強がものすごくできる優秀なお兄ちゃん」「たくさんの人たちに慕われ尊敬されていたお兄ちゃん」の解像度が低すぎる。
律が直接兄のそうした姿を見ていられた時期は、実はそれほど多くない。
中学校に進学する升(のちの子規)は、3つ年下の律の目から見て「すごい」しかわからない。
ましてや中学を中退して上京してからの兄が、何を見て何を思いどう過ごしていたのかは、伝聞でおぼろげに知るだけだ。
女がいつまでも実家に残ることが許されなかった時代、律は二度結婚するが、二回とも相手に愛情を持つことはできなかった。
兄がすごすぎたから?
もしかしたら兄のことを、異性として好きなのかも?
いや、世間が狭いがゆえの、ただのブラコンじゃろうと私は思うが。
逆に四季の立場で考えてみると、幼いころから正岡家の復興を親戚中から託され、だからこそ甘やかされた部分もあったろうが、それは大変に重苦しく付きまとって離れない、人生の重荷だったのかもしれない。
東京に出てきてみれば、松山では知らなかった、文化的に刺激を受けるような楽しい生活があり、じっとりと自分の出世にしがみついてくるような家族がいないのは、なんとも人生が軽やかになったのかもしれない。
けれどそれは律の知ったことではないので、ここには書かれない。
ただただ、律が兄を慕う思いのみ。
重い。うざい。
もちろん二人の間には、家族として兄妹としての愛情が太く長く結ばれていたのはわかる。
その時々でそれが恨み節になったり暴言になったとしても。
だからこそ、これは律の視点ではなく、二人の身近にいる第三者の視点で書かれた方がわかりやすかったのではないかと思った。
例えば松山中学の頃から升を慕い続け、陰になり日向になりして升のことを家族ぐるみで支え続けた河東碧梧桐とかね。
そうすれば、上京後の升の姿も、文学仲間との友情や切磋琢磨の日々なども、もう少し解像度高く描けたはずだ。
そして作中にも書いてあったとおり、家族だから言えないようなことも、彼は気づいて受け止めていたのだから。
小説という形で書かれた本作は、律の思いに左右され過ぎていて、正岡子規の姿はあまり見えてこない。
でも、普通の兄いもうとではなく、子規と律をモデルにした小説なのだから、升は子規でもなければならないはず。
評伝があまたある中で小説である意味を考えると、もう少し書きようがあったのではないかと思う。


